先進国で、子供の数が少なすぎるということが心配されています。日本ではついこの間一人の女性の産む子供の数が1.4になってショックを与えたと思ったら、もう1.3まで下がりました。今年の厚生白書は少子化時代特集になっています。このままでいけば日本は極端な高齢化構造になるという予測です。世界全体として見ると、今約60億の人口が120億という最上値を迎えて定常化するのか、80億という最高値を迎えて定常化するのか、予測がつかない状態ですが、いずれにせよ定常化するという予測です。
今まで我々は、全てのものはどんどん大きくなるという構造でものを考えていました。そういう大きくなるという構造でものを考えるのは、17世紀の西洋人が始まりです。18世紀のフランス革命の時に生きていた数学者コンドルッセは、人類の寿命が実際問題として延びに限界がないと思ったようです。文化がどんどん発達すれば、今は日本人の平均寿命が世界で最高で女性の場合は85歳ぐらいですが将来は栄養もよくなる、医学も発達するとなった場合には青天井で人間の寿命が延びていくという予測をしております。
18世紀頃の人類の進歩という考え方の中で最も重要なことは、人間の道徳性が進歩するということです。今の人類は泥棒をやったり嘘をついたりわいろをとったり、悪いことばっかりやっているけれども、やがて人類は聖人君子のような人ばっかりになるだろう、ちょうど平均年齢が延びるのと同じように道徳知能指数もどんどん延びるだろうという予測を19世紀までの人々は立てていたわけです。
例えば明治時代の日本人ですと、生まれてすぐ亡くなる赤ちゃんが多いですから、ずっと人口が減って、40歳ぐらいになると人口が半減していて、70歳になれば古来稀なりと言われてもおかしくないという構造です。人口曲線は多産多死型社会では、ほとんどまっすぐ落ちていくようなカーブになるわけです。現代の日本で人口が半分になるのはいつ頃かというと、おそらく60歳をもう過ぎていると思います。ある年に生まれた人が60歳ではまだ半分になっていないんじゃないでしょうか。
今の日本は80、90になると釣瓶落としに人口が減るという構造で、これは何年か前の『人口論』の本を読めば、人類の極限だという。(笑)今の日本の人口の構造が人類の可能な極限だというふうに書いてあった本もあるわけです。めいっぱい80代までみんなが死なずに生きて80代・90代になると急に減るというのは、もうこれ以上延ばせられないという限界かもしれない。19世紀の人だと人口の伸びがそういうふうになるとは思っていなかったわけです。最後に生き残る人が140歳になるとか180歳になるとかという寿命の伸び構造を考えていたわけです。
職業の問題として見ると今は全然明治時代とは違います。明治時代で40まで生き残ったというだけで十分指導性が発揮できる形になるわけです。今は例えば定年55歳までの間の自然淘汰はほとんどない。自然淘汰のない社会が現出したと言われます。世界全体で全部日本型になった場合の世界の総人口は大変な問題を含んでいます。
生態学者は、キャリアビリティーという言葉、要するにそれだけの人口を養うだけの負担可能性ということです。1930年代にアメリカのアリゾナ州でシカが大量に死んだ。なぜかというと、その前にシカを襲うようなコヨーテだとかを害獣とみなして、それを人間がたくさん殺して数を減らした。日本で言うとオオカミの数を減らすようなものです。そこでシカの数が急に増えた。ところが春先の端境期にシカは増えた分の全体の量をまかなうだけの餌がないために、全滅に近い状態で激減したというんですね。
なぜシカが全滅するか、人間だったら全滅しないでしょ。くじ引きで順番を決めて、あなたは餌をあげます、あなたは餌をあげませんと決めれば、もし食糧が半分残っていたら人口も半分残るはずなのに、食糧が半分になったからといって全滅するというのはおかしいと思うんです。オオカミはそういう場合にものを食べる順番が決まっているんだそうで、その順番から食べていって、食糧が50%に減ったら個体数が50%になるような仕組みになっているそうです。ところがシカはみんなで均等に分けてしまうので全滅してしまう。
供給量が絶対的に減ることによって大量絶滅が起こるのではなくて、個体数を維持するだけのキャリアビリティーに変動があった場合に、それぞれの動物がどういう倫理生活を持っているかということに依存する。シカのような平等主義の文化を持った動物は全滅してしまう、オオカミのような不平等主義の文化を持った動物は生き残るという構造になっていると思います。