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あるいは水の通路と。あの頃にあの長い水路を造るのを、日本が特にオランダから来てもらっていた学者は、そんなことは、日本でそんな運河なんて技術的にできるはずがないとはっきりと言っている。経済的にももちろん成り立たないし、それより先にそんなものが、スムーズに水が流れるトンネルを掘って運河を造るというのはできるはずがない、と言っておる中で、5年の間に、この琵琶湖から40メートルの落差のある京都へ水を運んで、そこでまた水力発電。あの時の水力発電というのは世界一の規模なんです。アメリカでやっと200馬力の水力発電ができた年に、日本では2000馬力のものを作った。だから、そのぐらい自然と人工という中で日本は独自の考えをしていた。あの疎水も今哲学の道とかいろいろなのがありますが、実にいろいろ考えてうまく自然と人工というものを文明開化の中に取り入れようとしていた。

 ●ただ、今言ったような状況の中で、生きる道というのは富国強兵でした。

 ●いわゆるゴー、ゴー、ゴー、アンド・ゴーンという言葉がありますが。それ行け、やれ行け、それ進め。そして、あ、行ってしまったと。こういうことについになったわけです。

 ●今度は戦後。これもヨーロッパにいた時にちょうどきれいな星空を南フランスの高原で見ておりましたら、それをまっすぐに横切っていく光る点がございました。1957年の秋の初めでした。それがソ連のスプートニクだった。

 ●その後アメリカへ行きましたら、まあみんなもう大変な大騒ぎ。毎日1時間たらずの間に何遍も頭の上をソ連のスプートニクが通るんですから、これはいらいらして。今まで冷戦の中でも絶対ソ連には負けないと思ったアメリカが、頭の上から毎日やられたのではたまったものじゃない。さあ、その頃に科学技術の教育は全部変わりました。アメリカは。大変な勢いで科学技術の基礎教育、研究体制、全部を見直す。しかし、なかなかそんな効果はいっぺんに出てこない。1957年に第1発のスプートニクが飛んでから4年後には、今度はガガーリンが人間として初めて宇宙飛行を始めて、これもアメリカの上を通っていった。まあいらいらしていて、何とかして勝たないかんということで、1969年、12年間の競争の間にやっとこのアポロ11号の月面軟着陸が成功してほっとした。これでソ連とアメリカとの宇宙の競争は一応引き分けといいますか、そういうことで、月面へ第1歩を踏みしめたわけです。1969年でした。

 ●そして、それからまもなく、三、四年後でオイルショックが来た。さあ大変だと。今度はオイルの生産国が、もう油は出さんと、値段はこっちが決めるということになりますと、世界中がオイルショックになってきた。そういう中で特にヨーロッパ、アメリカのそれまでの工業国。その前は植民地でがっぶりと地力をつけ、そして戦後はそういう形で科学技術では圧倒的に強いと、負けることはないと言っていた国々が、さあオイルを止められると大変だと。
 このオイルショックで一番力をつけたのが日本の製造業であり、日本の工業です。この1970年代のオイルショックの70年の初めの後で、世界中がびっくりしました。私、その頃はまたワシントンにいたんですが、ナショナル・サイエンス・ファウンデーションとか科学アカデミーで、アメリカの科学技術は空洞化してしまったと言っていました。確かに月に人を送ることはできたと。いろいろなプロジェクトが成果を上げたと。しかし日本に全て先を越されていると。だから日本に学ばねばならんと。それで書いたのがこの『サイエンス・アンド・テクノロジー』、これができあがったのが2000人か何かが調査を始めて、カーター大統領の初めの時に調査を始めて任期の終わる頃、1979年にやっとできたんです。その主題は「コンペティション」。競争の時代に入っていると。そして書いてあることは、ヨーロッパの基礎研究、そして日本のイノベーションとこの二つで、アメリカはよっぽどこの二つから学ばないと、アメリカの将来はないと。コンペティションだと。

 ●同じ流れが続いておりました。競争だ、競争だ。

 ●クリントンが立ちまして、今度は彼は言いました。サイエンス`イン・ザ・ナショナル・インタレストと。科学というのは国策であると。国益のための科学であると。今までお話ししてきた自然科学の流れの中で、人間が自然を知り、美と知を楽しむ心をずっとつないできた科学が再び戦後、戦争中で反省したはずが、戦後競争だ、競争だと、その次は国策だ、戦略だという時代に入ってしまいました。

 ●こういう中で、科学は確かにいろいろな分野に細かく専門化されました。

 

 

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