●ここにある写真は、ポルトガルのリスボンの記念像、モニュメントですが、そこのすぐ下にある国立博物館にこの間行った時に、「ポルトガルと日本」という展覧会がありました。しかもその展覧会の題名は「南蛮」と書いてあるんです。行きますと、1543年から1639年の間、ポルトガルと日本との関係があった。「これが人類の文明史上特筆すべき関係である」というのです。ここで言います1543年というのは、今申しましたコペルニクスが天体の回転について、それから後の自然科学を作る最初のきっかけを、本を思いきって死ぬ前に書いた。それが出版された時、彼はもうついに死んでおりました。しかし、その年は同時に日本にとっては鉄砲伝来の年であります。そして日本が初めてヨーロッパと直接接触する年になっている、いわゆる近代化の出発点です。ヨーロッパでも、そしてその影響を日本でも受けています。
●鉄砲がまいりました。これで織田信長が鉄砲隊を作って、ついに天下を統一するという時代に入ってまいります。
●その時に交流したのは鉄砲だけじゃなしに。
●オランダ・ポルトガル、スペインと、三つどもえの戦いをしておりました間、一番最初にポルトガルと日本がいろいろな交流をはじめました。先ほど言った展覧会に日本から行った、ずいぶん素晴らしい日本の工芸品を本当に大事に残しております。いかにその時に双方が大きな影響を受け合ったかということがわかります。
●同時に入ってきましたのが宗教です。ここにありますように、下に侍さん、2階にはそこの上にキリストを祀っておる。宗教の影響が入ってまいりました。多くの人がこの新しい世界観、人生観、生死の観に大きなインパクトを受けてきた。ただ、これが次の時代の施政者によってまもなくキリスト教を押さえ込まないといけないと、日本が危ないと。これは必ずしも宗教の問題じゃなしに、先ほど申しましたその頃の日本と、日本がやっとポルトガルによって西と直接会った頃、これは東南アジアの方は本当に大変な、スペイン、オランダ、ポルトガルの三つどもえの新しい開発時代が始まった。
●そういう中で、近代化というものの幕開けを日本は始めようとした時なんです。
●まずそこで突き当たったのが、今言ったような日本のその時のアジアに置かれた位、それからヨーロッパとアジアとの関係、そういうものが一挙に出てまいりまして、日本は国を閉ざすということにすぐなってしまうわけです。その日本が国を鎖国をしたその年に、実はここにありますガリレオ・ガリレイがヨーロッパでは新しいサイエンスを確立いたしました。そして宗教裁判にかかって、「お前は有罪だと、異端宣誓をしろ」というわけで、「私は地球が太陽の周りを回るなどというとんでもない考えを今後一切持ちませんし、またそういうことを外で言うことはありません」と、実に屈辱的な宣誓をやらされるわけですね。それで、あと彼はもう空の話をしたら今度こそブルーノと同じように生きたまま焼かれるかもしれないというわけで、彼は地上での運動。石を投げた時に放物線の軌跡が描かれるとか、あるいは加速度がどうだとか、若い時にピサの斜塔でやった実験などをまとめて、彼は最後の死力をふるって『新科学対話』というのを書くわけです。ちょうどその『新科学対話』が出た年に、日本は完全に鎖国をしてしまいます。外におる日本人も帰ってきてはいけない、外国船は一切いけないと。オランダだけ特別扱い。中国とオランダだけが特別扱いということになるわけですが。
●そういうわけで一番変化のある時に、日本は鎖国をいたしました。やがてニュートンが天と地を統一し、『プリンキピア』という本を書きましたのが1687年、18世紀の自然科学の始まりでございました。
●ここで天と地は初めて統一され、自然科学的には統一されました。
●そして三つの命題、物質の構造、光の本性、生命の神秘、この三つが新しい時代、18世紀の自然科学の3大命題になる。これがその後、化学、物理、生物学というような恰好でだんだん体系化されていくわけなんです。
●こういう格好でできていた自然科学というのが、やがて技術とつながります。だいぶん後になりますが、18世紀中頃、1750年頃に、自然科学の中で大きな命題が、目に見えない、あるいは手でつかめないような熱とか電気とか磁気とかいうものにだんだんに移ってまいります。その中で初めて熱とは何だろうという、熱のサイエンスが生まれます。そのトップを走っていたのがブラックというスコットランドの教授です。グラスゴーの教授ですが、ジョセフ・ブラックと。そこヘジェームス・ワットと、彼は実験装置なんかをお世話する技師として大学へ店を出しました。いわゆるマシン・ショップというものです。