ヨシを後から植えていますけれども、堤から先が急に深くなる場合が多いので、沿岸帯のシステム全体がうまく復活しない。ヨシ帯の幅も狭い。なかなか元の沿岸の生態系が果たしていたような機能がうまく回復しない。沿岸帯は陸から流れこむ水を浄化する作用も大きいのですが、残念ながらそれも復活させるのが難しいのです。
最近になって、県はヨシの保護条例を制定して、ヨシ帯を保存する方向をめざしています。しかし現実には、すでにそれ以前に決まっていた開発計画があって、沿岸帯の破壊は続いています。
図8は、一面のヨシ原であったところですが、それを全部はがして造成工事をしているところです。今はきれいな公園に変わっております。点々と残してあるヤナギも、こうなれば一代限りで、そのうち弱って枯れるものも出てくると思います。

図8 ヨシを刈り取って公園造成中の湖岸
それから、しばしば行われているのは、波打ち際を図9のような石積みに変える工事です。こういうのを親水護岸、水に親しむ護岸というようです。ここは元は砂浜でしたが、それをこういうふうに変えて、それで本当に親水になっているんでしょうか。確かに水際へは楽に下りられるようになりましたが、足をぬらさずに水に手がとどくというだけで、湖岸らしい生命のしるしは何もない。水中の石積みの端から向こうがストンと急に深くなりますので、その下へ泥がたまり、もといた生物群はほとんどいなくなっているのです。

図9 石積みの「親水護岸」
こういうふうに、人間にとって快適であるというだけの理由で、自然を公園的に変えていくのは賛成できません。公園が不必要だというのではない。琵琶湖の眺めを楽しみ快適に休むために、湖岸線のあちこちにそういう公園が点としてあるのはいいと思うんですが、それがどんどん線ないし面へと広がろうとしているのは困ります。琵琶湖本来の風景を保っていくためにも、湖の水をきれいにする自然浄化作用を維持するためにも、また全湖の生物、生態系を守り、生物多様性を保存していくためにも、できるだけ本来の自然に近い、あるいは自然そのままの湖岸を復活させていって、その中に点々として公園があるという、そういう形が望ましい。そうしなければ、本当の意味での自然との共生にはならないと思います。
何か自然との共生というと、町や公園には緑や花がたくさんあり、家の中にも部屋にいっぱい植木鉢がおいてある、休日になると、一家で車で緑の多い自然の中へ行って、河原でバーベキューでもしてまた帰ってくるという、そういう生活が思い浮かぶかも知れません。しかし、それ自体は決して悪いことではないけれども、それが自然との共生ではないのです。自然との共生とは、もう少し深いものでなければならない。例えば、誰でもができることとして、どんなに小さい自然の断片でも、土手の草むらでも、あるいは伐り残されたちょっとした雑木林であっても、それが自然としての働きを失っていない限りは、壊さないように努める。鳥とか花とか、我々を楽しませてくれるようなものだけが自然ではなくて、いろいろないやな昆虫とかヘビとかヒルとか、そんなものもいるのが自然であると認識し、尊重する。そういう自然と我々が高度に利用している空間とを、いかにして上手に共存させていくかというのが、これからの課題であろうと思います。
長い間ご清聴をありがとうございました。