日本財団 図書館


知的障害者福祉研究報告書
平成6年度調査報告  〜精神薄弱者福祉研究報告書〜


施設見学・ヒアリング記録

根来 正博氏(福祉施設「このみ」)

レスピット・ケアーサービスただいま実践中!
〜ファミリーサポートとしてのレスパイト・サービス〜 NO.3

運営体制
このみの運営は緊急一時保護・レスパイト・サービスと今年から地域デイサービスと言うように名称が変わったのですが、この二つの事業でなり立っています。職員は正規職員が4名、パートの方が5名で行っています。一日9時から5時までが基本の勤務時間です。月のうちで8日間を基本の休みとして休日もかならず一人は出勤するようにしてローテーションで休日体制を確保しています。
専任のコーディネイターをおく方法はとらずに、介護にあたる職員が自分自身も含めてコーディネイトできるようにしています。朝、前日確認した一日の流れを再確認します。一日の介護を終えて夕方、業務日誌にその日のできごとを集約する意味で記入します。そして翌日の依頼状況に沿って担当を割り振りー日を終えます。
このみに登録している人はだいたい年間で100人前後です。東久留米市は人口11万ですが、そのうち障害手帳を持っている人は2,000人ほどで、お子さんが200人ほどです。登録料がハードルとして若干高かったのか、去年実績では86名ほどでした。しかし潜在的な利用者も含めてやはり100名強の人がいると思います。
利用者父母会
このみでは利用家庭を募って利用者父母会を作っています。地域を東地区、中央地区、西地区と三つに分けてそれぞれに連絡網を作りこのみから家庭へ様々な情報を流しています。利用家庭を地域別に分けたのは、援助をこのみのような専門機関にだけ委ねるのではなく、地域の中でちょっとしたときに援助してくれる人を増やしていくことが、障害のある人やその家族が地域で生きていく上では必要なことであり、今後の財産となるのではないかという考えの元で、その為にはまず親同志から仲良くなりましょうと言うことで地域別の懇談会などを行うことから始めました。最初はどの地域でもありがちないわゆる障害の縦割りと言われる親の会系による組織的な軋轢を何とか解消したいという思いもありました。○○会の会長だからと言うことではなく、このみを利用する上での一人の会員と言う立場で会に参加してもらっています。連絡網に関しても学校ごとに連絡してもらうと連絡しやすいとか、親の会ごとに連絡網がもうできているんだからまた新たに作らなくともと様々に言われました。けれども、お母さんの中から、親同意で仲良くなれなくてどうして地域の人達を巻き込んで地域の中で支え合う関係をつくって行けるのかと言う力強い意見で頑張った人がいて、今その方向で何とか進めています。

援助の実際をお話したいと思います。その前にビデオを見ていただきます。テレビ東京で今年の7月に放送されたものです。30分番組で15分ほど放送されました。このみの援助は既にお話ししたように依頼があればそれに沿って対応して来ました。学校に出向いて行ったり、送迎だけの関わりとか、宿泊も伴った対応をするとか、とにかく必要に応じて形を整えます。年間の利用は去年度の実績で延べ900件ほどです。これは一日預かると一件と言う数え方です。実際の利用人数は75人でした。ですから登録していても利用しなかった人が10人ほどいます。では、ビデオを見てください。

と言うことでご紹介して頂いた番組です。一日だけの撮影でしたから、ちょっとやらせと感じられる様なインタビューもありましたね。
最後のお母さんの言葉『ただ預かってもらうだけでない面で関わっていってほしい親の思い。』というのは、結局、地域の中で暮らし続けていくためにはどうしたら良いのかと言う事に尽きると思います。とりあえず親は一生懸命考えるけれども、その後、誰が受け継いでくれるのかと言う不安が常にある。本音としてはいろいろな人に受け継いでもらいたい。それを支えて欲しいという気持ちだと思います。このみはまだその域までは踏み込み切れていません。しかし家族が家族としてまとまりたいと言う気持ちに応えてはこれたのではないかと思います。その事についてどんな風に援助してきたかと言う事をお伝えしたいと思います。
ダウン症で心臓疾患を抱えた当時小学校2年生の男の子の家族から依頼が入りました。お母さんが胆石を手術するので2か月間入院しなければならなくなりました。胆石ですから入院までにちょっと時間がありました。その間に、障害のある本人の生活をどうしようかと随分迷われていていました。お父さんやお母さんが不安に感じていたのは、本人にとって『母の存在がなくなること』『新しい環境で過ごすこと』この二つの要因がストレスになって心臓に負担をかけ健康を損なってしまうのではないかということでした。しかも緊急一時保護として措置される入所施設の対応では『生活の基本が大きな集団生活であること』『2か月の間、家族の誰とも会えなくなってしまうこと』が本人にとってより大きなダメージになってしまうのではないかと懸念されました。このみにご両親が訪ねて来られて『このみはどこまで援助してくれるのか』と質されました。そこで、本人も家族と離れての生活を望んでいないしご家族もご心配なら、このみとしてできる限り希望に沿って援助内容を組みましょうということにしました。
お父さんは塾の講師で十時ぐらいに仕事を終え帰宅する生活でした。後の家族は4才年上の兄がいました。まず対応としては、学校に本人を迎えに行きました。放課後は基本的には保護所で過ごして、夕方お兄ちゃんが保護所にあらわれるのを待って、職員と3人で夕飯を取って、食後、500メートル程はなれた自宅に戻ります。家で兄と一緒に風呂に入り布団に入り込んで父の帰りを待ちました。父が帰宅した時点で職員は業務を終えるという関わりでした。本人は朝目覚めるとお父さんがいて、朝食を共にして学校に通える、普段の生活で欠けているのはお母さんだけという、これが一番本人にとっては非常に辛いことでしょうが、でもとりあえず最小のダメージで緊急事態を乗り越えていける。そんな環境を用意することで、本人と家族が主体的に営む生活をこのみは側面から支えることができたのではないかと考えています。

もっと緊急性が高かったケースでは、お母さんの病気が進行性の癌だったというものがあります。進行が凄く早かったものですからすべては瞬く間のできごとでした。初期の段階で既にお父さんは医者から先の見通しの暗いことを告げられていましたから、お母さんが入院する時点でその先のことをどうするか迷われました。後から聞いた話しですが、『いずれ父子だけの生活になってしまうのなら早めに施設に託してしまった方が良いのではないか。』そんな思いが頭をよぎったそうです。しかし、お父さんとしては、お母さんが限られた時間を子供のことを気にかけながら過ごすよりは、自分が少しだけ踏ん張って子供と暮らすことで、病院に見舞いに行った時に子供のことを話したり、また子供がお母さんの帰りをまっているから早く帰れるように頑張ろうねと励ましたり、お母さんの闘病の支えになるのではないかと考えられたそうです。それはお父さんにとっても自らを奮闘させることでもあったようです。なれない家事や育児はとても大変だったようですが、だれもいない家でお母さんのこと子供のことをあれこれ一人寂しく思い悩む辛さを比べて考えれば、一緒にいれて良かったと言って頂きました。

手術後一月目にお母さんからこのみへ電話をもらって本人がこのみで過ごしている様子と、お父さんの奮闘ぶりをお話しました。本人は、普段通っている通園施設でも園生向けに緊急一時保護をやっていますので、夕方の5時まではそこで過ごします。5時にこのみが園まで迎えにいきお父さんが向えに来るまで過ごしました。最初は、お父さんが家で子供の分まで夕食を用意するということで頑張られていましたが、日に日にお父さんはやつれていかれ一週間目で傍目にも心配なほどでした。お母さんの病状を心配してと言うことが一番であったとおもうのですが、不慣れな家事を始めたと言うことも重なりあっというまに3キロぐらい痩せられてしまいました。そこで『夕飯はこちらですませましょうか。』と水をむけた所、ではお願いしますと言うことになりました。食べ終わった頃を見計らって迎えにきますと言うことでしたが、家までは保護所から車で15分ぐらいのところでしたので往復すると30分以上かかってしまいます。そこでお父さんが家に帰って食事を済ませて、一段落した頃に電話をくれればこちらで送りますというようにしました。そんな風にして少しづつ生活実態に合わせて援助内容を切り換えて行きました。お父さん自身がなんとか潰れることなく頑張られました。そんな生活の中で、闘病中のお母さんからこのみにいただいた手紙をご紹介します。
『大変お世話になっています。私もはや一ヵ月が過ぎ徐々に回復に向かっています。先日お父さんが「このみ会報」を届けてくれて早速読むとすぐ我が家の文章が目に入り、我が家のことながら涙して読んでしまいました。今までこんな事、手術・入院になるなんて、頭の中で考えていたもののいざ現実にさらされると路頭に迷うことばかりでした。でも困難を乗り越えて行かれるのは、すぐ側にこのみがあったからだと今となって身にしみて思っています。長い期間ですと障害を持つ子は専門の人に見てもらわないと親にとっては安心できません。お父さんにはちょっと負担が大きかったようですがそれでも息子が側にいることのほうが重要だと思います。この頃はお父さんも一日の生活のリズムがついて以前ほど疲れた顔もなく病院にきてくれるのでほっとしています。もし子供を見知らぬ所に預けていたらこんなに安心していられなかったと思います。今の私は病気を治すことを優先して頑張っています。電話の向こうの息子の声を聞くと自分の力もみなぎって、息子の存在は大きなものがあります。みなさんにはもう少し迷惑を掛けますがよろしくお願いします。』
この手紙を頂いた一月後、お母さんは退院することができました。二月ほど自宅で静養した後再び入院され、発病からわずか半年で逝かれてしまいました。お父さんが病院にお母さんを迎えに行く間と、お通夜、そして葬式と付き添いながら参列し必要な場面で介護にあたりました。家族から引き離すことで家族の負担が軽くなると言う発想では、今お話ししたようなケースには全く対応する術がないことを深く心にととどめて欲しいと思います。
今、ファミリーサポートとしてのレスパイト・サービスがアメリカで提唱され、徐々に広まっています。向こうではファミリーサポートの考え方はすでに広まっているのかと思ったのですが、この間アメリカで出版された『ファミリーサポート』1992年版の本を貸して頂いて英語に堪能な人に要約をまとめて頂きました。その文章を読んでいきますとまだファミリーサポートという考え方自体、アメリカ全土に行き渡っているわけではないようです。ただ理念は整理されているようです。その基となる発想は全くノーマライゼーションです。『家族と暮らすのは自然なことで障害者が家族の一員として一緒に暮らす権利があると言われ始めている。ただ、それは最近のことである。』と書かれています。92年に出版されたもので『最近のことである。』と言うのはアメリカですらそんな段階なのかなと思います。アメリカについてあまり知識を持っていなかった自分としてはちょっと驚きでした。アメリカでは近年職業を持つ母親、シングルの親、核家族などの傾向がより助長されているにもかかわらず、家族と暮らす障害児が増加しているとも書かれています。その状況の元でレスパイト・サービスによるファミリーサポートがより求められているようです。
ファミリーサポートによるレスパイト・サービス以外にどんなサービスがあるかと言うと家庭が公的機関に求めるサービスの形態として一番必要性高いのが『サービス全体の柔軟性』と言うことです。それは何か釈然としない枠などは持たずに、きちんと家族のニーズに即した対応をしてくれと言うことだと思います。例えば東京都の場合、緊急一時保護介護人制度と言うものがあって、その枠に当てはまれば利用できるのですが、当てはまる理由の枠と言うものがひどく杓子定規なのです。基本の枠としては冠婚葬祭、親の疾病・怪我によるもの、公的機関に出席する場合の三つに分かれています。保護者会に出席する場合は、その内の公的機関の出席で認められています。この公的機関の出席の扱いがひどくねじれています。例えば運転免許を取りたくて教習所に通って試験場に行くと言うケースの場合、試験場は公的機関だからいいけど教習所は私立だから公的機関ではない、と言うことで試験場へ行くときだけ制度利用が認められると言うことがしばしばありました。この介護人制度については今このみを利用する人が利用できる唯一の公的制度ですから、様々な軋轢を感じてきたと言うことでの思い入れがありますので、もう少し詳しくお話します。この介護人制度にはもう一つの足かせとなる枠として日数制限があります。東京都の基準としては月に5日までしか利用できません。この基準に市が上乗せした分が2日あります。ですから利用する方は一週間通しで利用できます。さらに市の上乗せとして市長裁量の3日分と言うのがあり、状況によっては10日間まで利用できます。元となる月のうち5日までという都の基準自体が既に地域での支援と言う視点から大きく外れていると思います。そのせいかどうか分かりませんが、市長裁量の3日分を利用する場合だけ手続きが必要と、ちょっと歪んだ状況になっています。この最大10日まで利用するのは、大抵は疾病怪我による場合なのですが、7日分を利用するときは診断書が要らないのに、市長判断の時だけ必要になっているのです。これは、市長判断と言うものを実際に市長が判断するわけではなく福祉事務所のケースワーカーが判断するものですから、ワーカーがそこに特別の権限を見出だしてしまったようなのです。行政の硬直化と良く言われますが、こういう状況なんだなとつくづく思ってしまいます。
ファミリーサポートの本のことにまた話しを移しますが、この中でも行政の硬直化と言うことは書かれています。先程もお話ししたようにアンケートによると一番求められているのが、サービス全体の柔軟性と言うことです。他に求められているのは、家族に焦点を当てた専門家、障害者への肯定的な姿勢、財政的援助、迅速な情報提供とサービスへの紹介、地域社会サービスへのアクセス、親への支援グループ、レスパイトおよびデイケアーサービス、これはアメリカならではと思うのですが健康保険適応の改正があります。さらに、現金手当てを受けた場合の使い道の援助と言う項目があって、これについては交通費、医療器具、家族レクリエーション、レスパイトおよびベビーシッターを依頼する、家庭教師、セラピストを頼む、食品・衣類衣料物資(おむつ等)を買うといったものがあげられています。
日本でも個人給付という形で、障害の程度によって介護手当てとか福祉手当てとか家庭に支給されていますが、アメリカではかなり貧富の差が激しいので、こういった直接の給付が障害者本人に行く場合は良いのですが、家族の生活費に当てられてしまう場合は問題であると書かれています。それが一番問題になるのは、家族が一緒に住むことを選択する動機の一番に、財政的な援助を受けることをあてにしてと言う事がきてしまうからだそうです。
ファミリーサポートのサービスを考える上で大事なことは、このサービスを利用することは障害をもつ家族の当然の権利としてとらえるという視点です。障害のあると言うことが既にいろんな重荷を背負っているわけですから、その重荷を家族に全部負わせるのではなく、社会がその重荷を分かち合うと言う視点です。社会がサポートすることでこそ家庭生活がスムーズに行くという発想が大事なのです。ですから家族が困っているから家族を援助する、それがファミリーサポートであるという狭い考えではなく、障害を持っている人が地域で暮らすためには、まず家族の支援が必要である。その家族の支援だけでは地域での暮らしに足りない援助を社会がサポートして行く、このこともファミリーサポートの重要な要素であることを、もっと比重を大きくして考えていかなければならないと思います。
今回のレジュメの中でも、ファミリーサポートからセルフサポートという発想でまとめてみたのですが、障害を持つ人が家族と一緒に暮らす時期に必要なのは、家族の援助を中心にした生活基盤の安定。これが安定するかどうかで本人の地域での生活の質が問われると思います。この時期に家族だけで補い切れない状況を社会がサポートする。そしてそのサポートして行く量が段々増えていく、それは本人が成人になるにしたがって増えていくわけですから、ある時期から、…その目途は成人になったらと画一的にする必要はないと思いますが…、家族が援助してきたことと社会が家族に援助してきたことを合わせて、社会が直接生活基盤を安定させる為の機能を発揮させる必要があると思います。この援助の流れをスムーズに関連付けていくという視点でファミリーサポートをとらえることが重要だと思います。これは、子供の頃からずっと生活している地域で大人になっても生活し続けると言うことであり、生活の連続性を尊重する事としてとても大切なことです。さらには地域と結び付いた社会資源との関わりの積み重ねによって培われた事柄を糧に生活していくことがとても重要であり、それこそが本人の地域性だと言えるのだと思います。
ファミリーサポートでレスパイト・サービスを中心に家族が担っている介護部分を支えていくことは、色々なノウハウとして、いずれ地域でその人がグループホームなり一人で生活するようになった時に蓄積された重要な資源として生かされると思います。ですから?@家族が一緒に暮らして行きたいという思いと、?A本人が地域で生活する権利に即した援助・支援を保障して行く、この二つを大切にすることが大事だと思います。
この考えで実際に援助を組み立てる上で一番難しいのは、既存の制度に引きずられて行政の考えがファミリーサポートになかなか前向きになっていかない事だと思います。前向きにするには地域住民の理解を進めることが必要になると思いますが、その為には障害のある人と、共に暮らすその家族が、主体的に生きていくことが『始めの一歩』だと思います。自らの主体性を尊重させるために新しいサービスが必要だと声を上げていくこと、また新しいサービスの芽が生まれた時にその芽を育てつつ利用するそんな姿勢、そこに『始めの一歩』があるのではないかと思います。
神奈川では横浜、相模原などでも新しい事業が展開すると聞いております。今日の講座も含めて、いま新たな風が神奈川から吹こうとしているのではないかと感じ、期待しています。
新たな風の中では利用する人達が控え目にサービスを利用するのではなく、堂々と利用してもらえる価値観を、私たちが取り組んで来たサービスから見出して貰えると大変有り難いと思います。そしてその風が、東久留米を含めて各地の閉塞的な状況を開いて行くのではないかという期待を持つ機会を頂いたことを大変有意義に感じております。
ご静聴ありがとうございました。


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