の施設の障害者たちが、自分たちが1981年までに施設から出ようと作った計画である。1981年は国際障害者年であり、自分たちのための年だったから意味があったのである。
(2) ダイレクト・ペイメントの実現へ
彼らは目的を達成し、その経験のうえに自立に向かう設計図がつくられた。これがダイレクト・ペイメントのもととなった。直接給付を推進したそもそもの団体はハンプシャーの自立生活センターであり、施設を出てきた障害者が設立したものである。ハンプシャーの自立生活センターは、地元の障害者の自立だけでなく、全国的なキャンペーンの母体となった。センターは社会的サポートを使って自立するという新しい自立生活を実現した。介助者を雇って自分の生活の管理が可能となり、従属的な関係を解放するための運動となった。しかしこれは創造的な試みである一方、恐ろしい戦いでもあった。自分たちによる管理を手に入れるために、大きな戦いを仕掛けなければならなかったからである。その対立を通して、最終的に介助の権利を獲得し、その介助こそが自立生活運動の中心となった。自分たちで自立して生活できるよう、直接給付制度をかちとった。
1980年の段階では、税金を使う直接給付は社会サービス局にとって違法行為だった。現金支給を受けて介助者を雇うことは認められていなかったが、私たちはキャンペーンを行い、法的に許可させた。現実に1〜2名の障害者が、障害者団体や民間のサービス提供団体を通して介助者を雇うことを認められていたので、まず第1歩が踏み出せた。しかし、このことにほとんどの地方自治体は協力してくれなかった。数人の力のある障害者の活動家が裏取引をして、自分たちで介助者を雇って自立生活を認めさせた。彼らは社会サービス局を説得した。これは1980年代半ばのことなので、法律ができるまでに11年かかっていることになる。
お金を得て自分たちの生活を管理したいというキャンペーンには、4つの目的がある。第1は、障害者には不可能と思われていた雇用主の役割を演じる能力を証明することであった。つまり、国の保険制度、雇う人の監督などの複雑な責任を一切引き受けることである。2番目は、現在不適切に使われているお金の適切な使い方を目指すこと。3番目は、障害者の側では自立への期待が膨らんでいるのに政府は予算は限られていると言うので、その限られた予算を有効に使わせること。そして4番目が、社会サービス局がいままで援助を行ってきた長い年月の中でその傾向を強めてきた、障害者に対する保護的な扱いを変えていくことであった。
次に問題となったのは、行政側の“恐れ”であった。行政は、障害者が不適切な介助者を雇うことによって介助者にお金を取られたり、物理的に嫌がらせを受けたり、悪い扱いを受けたりするのではないかと恐れたのである。行政は障害者が適切な介助者を知らないのではないかと考えて、直接給付を阻止しようとした。また、行政はケアを提供する仕事