ですが、国によっては九〇%以上のものが栽培食です。つまりカルチャーです。カルチャーは人間がつくるものです。自然の生産の場とは全く関係のない別のところで、人間が好きなように物をつくるのがカルチャーです。アグリカルチャーは皆そうです。そこから出てきた生産物を我々は毎日食品として食べているわけです。お米もそうです。穀類は全部そうです。カルチャーでない食べ物は陸にはほとんどないです。全部カルチャーです。
ところが、カルチャーでない食べ物が一つあるわけです。これも唯一の例外なのですが、魚貝です。魚貝はカルチャーではなくネイチャーです。
カルチャーとネイチャーはどこが違うかといいますと、カルチャーは自然の生産の外に人間が生産の場をつくることです。そうすると、今の言葉でいえば自然環境を圧迫せざるを得ないわけです。そして、そういうものを圧迫してきた長い歴史があったわけです。そういうものに対しての批判が非常に強くなってきた。
今でも東南アメリカ、南米で焼き畑をやっています。焼き畑も一種のカルチャーです。自然の場を焼いて、あそこに人間がいろいろなものを差して、それを成長させるカルチャーです。ああいうふうにして、カルチャーはネイチャーと常に競合しているわけです。そして常にネイチャーを押していっている。そのことに対する批判が最近非常に強くなっています。
ところが、環境保護をいっていらっしゃる方に「それでは、何も食わないでいいのか」といったら、それは困る。その間のバランスをどうするかということを真剣に考えないといけない段階に来ているのがカルチャーの現在のポジションなわけです。
ところが、漁業に関する限りネイチャーです。ですから、一向に自然に対する場の競合はないわけです。海の中には、自然の生産物が生産されているわけです。それはそれなりに仕組みと秩序があります。その仕組みと秩序を無視して魚貝類をとると、もとへ戻らないような打撃を海の生態に与えてしまいます。残念ながら、それを今まで二十世紀に入って、世界の人たちは海に対してやってきたわけです。
しかし、ネイチャーに対応しながら、今でも懸命に生産を続けているわけです。そういうものをもう一度見直さないと、ネイチャーとしての自然採集としての漁業は先細りになってしまう。きょうの皆様方の中にどのくらい漁業に興味をお持ちの方がいらっしゃるかわかりませんけれども、私は漁業というのは、自然の仕組みがあると先ほど申し上げましたけれども、自然の仕組みを知った中で漁業をやって、それを自然採集していく状態で、つまり理想的な格好で漁業が行われるとすれば、こんなに環境に合致して生産が得られるような産業はないのだろうと思います。それは申し分のない産業になるのだろうと思うのですが、最近の漁業は、実はそういうものとは逆の方向へ、逆の方向へと向いていると僕は思っています。
例えば、自然な生産を自然に採集するってどういうことかといいますと、カルチャーとネイチャーの違いは、もう一つ重要な違いがありまして、カルチャーは人間がつくるわけです。一人のお百姓さんが何百種類のものをつくるわけにはいかないのです。ですから、キャベツをつくる人、トマトをつくる人、キュウリをつくる人と何人かいて、別々のものをつくってマーケットに出す。