はしけ・ダルマ船にエンジンをつけたような船で襲ってきました。我々は何で対抗したかといいますと、海水でした。海水ホースをブルワークに取り付け、ポンプで圧力をかけ、撃たれないように気をつけながら海水を海賊船に目掛けて放水しました。小型の海賊ボートは、電気系統にトラブルが起きたのか、エンジンが止まり、ハッチの中の海水をくみ出すことに追われ、やがて、潮に流されて遠く離れていきました。
港外に沖待ち中、本船の周りに同じように錨泊している船戸は連絡を取り合っていました。不審な船が近寄ると、周りの船と、VHFで交信し、お互いに警戒体制をとり、難を逃れました。
あるとき、不審なボートが行き過ぎましたので、安心していたところ、どうもそのボートはエンジンを止め、音をさせずに近寄ってきていたようでした。船首の方角からガタンと音がしたので、すわ、海賊と汽笛を鳴らし続け、木刀を片手に声をあげながら、乗組員数人で突撃をしましたところ、賊は何も取らずに海に飛び込んで逃げました。
船首のホースパイプの蓋が外されていて、侵入経路が判明しました。小さな足跡がホースパイプの周りに残っていました。子供が錨のチェーンを伝ってよじ登り、蓋を押さえてあるフライナットを外して、大人の仲間を手引きしたようでした。
いろいろな事件が起こりましたが、やっぱり、人間は知恵比べ、負けない努力をしたものでした。
ラゴス港では、港内の海賊行為が頻繁に起きた時、運輸大臣(ラゴス州)に取り締まりの陳情に行った事がありました。事もあろうに、大臣が港内の視察に出たところ、海賊が出て、おまけに大臣一行を襲撃したものですから、烈火の如く怒り狂い、海賊を掃討することを命じました。しかしながら、しばらくたったら元の木阿弥でしたが……。
軍事政権の頃は公開銃殺をしていましたが、民事政権では、銃殺を禁止していました。このことから考えても、大臣の命令は異例のことでもあった訳です。
それでは、資料をご覧ください。西アフリカでの海賊行為が、激減しているデータを見ますと、当時が懐かしく思い出されます。
一九九〇年代に入り、マラッカ・シンガポール海峡での海賊行為は減少してきました。シンガポール・マレーシア・インドネシアの三国間の協力が実を結んだ事と思われます。
しかしながら、シンガポール海峡では、一九九四年に三回、九五年に二回、九六年に二回とほぼ横ばいでありますが、マラッカ海峡では所々で出没しています。
マラッカ・シンガポール海峡での海賊行為が、少なくなった分、シャム湾やインドネシアとフィリピンの国内の海域に海賊が増えてきています。
客船の船長をしていた頃のことですが、総務庁のアセアン諸国と日本の青年達が乗船する「東南アジア青年の船」と、一三カ国の青年達が乗船する「世界青年の船」にっぽん丸で両海峡を何度か航海をしました。シンガポール海峡の手前の東支那海のアナンバス諸島からマラッカ海峡のワンファゾムバンクまで、夜八時から朝六時まで外のデッキに出ることを禁止しました。もちろんデッキに通じるドアの鍵をすべて施錠しました。