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は「字膽吹山産する所の蓬也。山の八分に在。高三四尺乃至六七尺。甚大にしてうるはし。土人毎年五月五日是を採て干曝す事数遍。臼にて是を舂きて蓬艾を製す。柏原駅にて是を売る。自云う、蓬艾、一灸すれば他の百艾よりも勝れりと。」と記されている。

こうして柏原宿では伊吹艾を売る店が軒を並べることになった。多い時期には10軒を越えたという。「初旅は灸も支度の数に入り」と川柳に歌われるように、艾は旅の必需品であり重宝な旅の土産ともなった。しかし明治以降の西洋医学の普及と街道の衰退が艾に与えた影響は大きく、今ではわずかに伊吹艾本舗「亀屋佐京」1軒を残すだけとなった。

亀屋佐京店は肥前国松浦氏の後裔と伝え、弥一郎なる人物が当地にきて初めて店を開いたという。その後、七兵衛の代に大いに繁盛する。七兵衛は行商で江戸へ下り、江戸市中で艾を売り捌いては吉原で遊興。その際、吉原の遊女に「江州柏原の伊吹山の麓 亀屋佐京の切り艾」と歌わせて名を広めた。また、伊吹艾という浄瑠璃を新作させて、大坂や京都で興行させたという。こうした奇抜な宣伝方法によって財をなした七兵衛は、やがて邸宅を大改造。広大な庭園を築き、街道を往来する人々にも開放して話題を呼んだ。その光景は、安藤広重の浮世絵「木曽街道六十九次」にも描かれるほどであった。庭園は今も同家にあって、四季折々に落ち着いた風情を見せている。

 

(7)街道の施設

街道には、街道を特徴づけるさまざまな施設があった。それらの多くは江戸幕府の道中奉行の管理下にあり、その設置や変更には、そのつど道中奉行の許可が必要であった。今ではなくなってしまった施設も多いが、わずかに現存する例や古絵図などから当時の姿を概観しておくことにしよう。

・高札場 宿場には、宿場の中央もしくは入口に必ず高札場が設けられており、そこには江戸幕府が発した法令や禁令を板札に墨書した、いくつもの高札が掲げられていた。柏原宿では宿場の中央、本陣の西隣に街道に面して設置されていた。今も柏原区には正徳元年(1711)5月に発せられた大高札が8枚伝えられている。

・松並木 柏原宿の西には松並木が残っている。その数はわずかに6本で、幕末に混植されたという楓が4本加わる。かつては街道の両側にこうした並木が点々と生い茂り、旅人を猛暑や寒風から守ってきたが、今では松と楓を合わせても10本に満たない。正徳4年(1714)2月、長久寺地先から柏原をへて醒井までの街道沿いに、道中奉行の指示で松が1601本植えられたという記録があり、柏原区に伝わる『萬留帳』には、毎年のように並木の立ち枯れや倒木を記して、その対策に腐心している様がうかがえる。

・一里塚 慶長9年(1604)、幕府は江戸の日本橋を起点に里程を定め、街道の両側に1里ごとに木を植えて一里塚を築いた。一里塚は旅人が目的地へ向かう目標となり、馬や鷺籠の賃銭を支払う時の目安ともなった。『柏原宿町絵図』をみると、柏原宿の西はずれに5間四方の大きな一里塚があり、榎の大木が描かれている。

・見附 宿場の人口に設けられたのが見附。もともと見附は城の外に番所を置いて、人々の通行を監視したことから生まれた名称のようだが、『柏原宿町絵図』には柏原宿の東と西の入口に、石垣の上に柵を設けた見附も描かれている。

・橋 柏原宿内には、西に天野川と仲井川、中央に市場川が横切っている。そこには天野川に丸山(中川)土橋、仲井川に仲井川

 

 

 

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