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(挿図参照)があり、建物の主要部が移築されて残っている。絵図は江戸時代後期のものであるが、それを仔細にみると、間口は26間あり、街道に面して3つの門が開いている。建物は、大名などが休泊する部分(西側)と家族が生活する部分(東側)で構成されている。大名が休泊する側は、格式のある門構えの表門を入り、白砂の庭をへて玄関に到る。玄関の内は書院造りの部屋が連なり、奥は床が一段高くなった上段の間。また、家族が生活する側は、裏門を入り、通り土間をはさんで勝手や物置そして居住のための部屋が並んでいる。また、実際の建物も岐阜県垂井町宮代に、上段の間を含む書院1棟が移築されて残っており、表門も岐阜県関ケ原町今須にある。両建物とも往時の柏原宿本陣を知ることのできる貴重な資料である。これら本陣・脇本陣とも、その成立以来廃止にいたるまで、当地の有力者であった南部氏が世襲した。

 

(4)旅籠屋など

公的旅行者が本陣や脇本陣を利用したのに対して、一般の旅行者は旅籠に泊り茶屋で休息をとった。柏原宿の旅籠屋は享保9年22軒、天保2年(1831)18軒、天保14年には22軒を数える。享保9年と天保14年の数には、枝郷であった岩ケ谷と長久寺の旅籠屋の数が加わっているものと思われる。そのほか柏原宿には「郷宿」と呼ばれる宿があった。上段の間をもつ書院や庭園を伴い、通常の旅籠屋とは構えが異なっていた。なお、享保9年の記録によると、当時、医師が2人、大工11人、木挽4人、古着を扱う絹屋3人、そのほかに商人15人がおり、造酒屋も4軒が店を出していたようである。

 

(5)柏原御殿

柏原宿の西、仲井川の北側には、今も「御茶屋」と呼ばれる一帯が広がっている。かつて当地には「御茶屋御殿」と呼ぶ御殿が建っていた。天正16年(1588)、徳川家康の上洛の折りの宿舎として、在地の土豪西村勘介屋敷を使用したのに始まり、その後、元和9年(1623)の家光上洛に際して御殿を建立。以後、元禄2年(1689)に廃止されるまでの66年間、将軍休泊のための御殿として機能した。

在りし日の御殿を記した絵図をみると、御殿には街道に面して瓦塀に連なる2つの門が開き、その間口は42間。奥は竹矢来で三方が画されており奥行38間を計る。街道をへだてた南には「御殿御番」の建物が描かれており、行岡小市郎の名が付記されている。元禄2年に御殿が廃止された際には、この小市郎は扶持米召し上げとなって江戸へ帰参し、本郷の代官辻弥五左衛門より柏原村の庄屋・年寄へ「御殿御預け」という形で終止符が打たれた。御殿の器材は入札の上で村人2人に売却、土地は西村民末裔の勘右衛門が開発するところとなった。こうして御殿は江戸時代の早い段階に消失。今では、わずかに御台所あたりに井戸跡が残り、近くの真宗大谷派勝専寺の山門が御殿裏門を移築したと伝えるばかりである。

 

(6)伊吹艾本舗

柏原宿の中央、今川の地には、街道に面してひときわどっしりとして落ち着いた佇まいの屋敷がある。「伊吹堂」の大きな看板が架かった伊吹艾本舗である。艾は灸治に用いるもので、蓮の葉を原料とする。日本の伝統的な治療薬としてその歴史は古く、また別名「医者ごろし」と呼ばれるほど高い評価を得てきた。

伊吹山は古来、薬草の宝庫として知られ、数百種にのぼる薬草が生育するが、伊吹艾となる良質の蓬を産した。『近江興地史略』に

 

 

 

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