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第2章 柏原宿をひもとく

 

2-1 柏原宿の歴史

(1)柏原宿のすがた

柏原村は、古くは豊臣秀吉の蔵入地であった。その後、徳川幕府の直轄地となるが、江戸時代中ごろの享保9年(1724)には大和郡山藩領となって明治維新にいたる。この柏原村が宿場として成立するのがいつのことなのか正確なところは不明だが、少なくとも江戸時代初期の慶長年間(1596〜1625)には宿場として機能していた。

柏原宿は中山道67宿の1つで江戸より60番目の宿である。宿の長さは東西12町49間(他に13町、12町40間の記載例あり)、東西45間。宿内13の集落で構成され、西から仲井町、御茶屋、西町、今川、市場町、宿村、東町の7つの集落が街道に面していた。慶長7年(1602)の戸数は286軒。その後、徐々に増加て122年後の享保9年には475軒にまで達し、人口も1654人を数えるが、以後は減少に転じ、幕末の慶応2年(1866)には戸数364軒、人口1633人となる。古文書をみると、18世紀半ば以降、柏原宿の困窮する姿が浮き彫りとなるが、戸数・人口の減少も、こうした事態と少なからず関連するものであろう。

 

(2)柏原宿の支配

宿場は、一般の村々と同様に在地の領主か代官の支配を受けるとともに、幕府の道中奉行の支配下にも置かれていた。宿場は、いわば二重の支配を受けていたことになるが、柏原宿も例外ではなかった。柏原宿の場合、幕府直轄地時代は本郷村にあった陣屋の代官の支配下にあり、大和郡山藩領になると神崎郡金堂村(五個荘町)の陣屋の代官の支配下に置かれた。これら代官のもとで柏原村の年貢徴収や一般行政が行なわれた。その任に当たったのが庄屋である。幕府直轄地時代の延宝3年(1675)の記録を見ると、当時の庄屋は3人で、ほかにこれを補佐する年行司4人、あるき5人などがいた。

一方、柏原宿は幕府の道中奉行の支配下にもあった。こちらの任を司ったのが問屋である。問屋は、人馬の継ぎ立て、旅宿、飛脚(通信)、街道の維持管理などの宿場業務を、道中奉行の指揮のもとに統括した。これら宿場業務の中で、もっとも重要であったのが人馬の継ぎ立て業務である。宿場には、一定の人と馬を備えておく任務が課せられており、その人馬で参勤交代の大名・公家・幕府役人そして外国使節などの人や荷物を次の宿場へと送り出した。その実際的な業務を行なう施設として問屋場があった。問屋場には問屋のほかにも、問屋を助ける年寄、事務担当の帳付、人馬に荷物を振り分ける人馬指などが出勤して業務を行なった。柏原宿の場合、延宝3年当時は、12人の問屋が交替で問屋業務に当たり、ほかに13人の年寄や2人の人馬指がいたようである。また、江戸時代後期の天保14年(1843)の記録によると、5人の問屋の自宅を問屋場として、10人の年寄、2人の帳付、6人の人馬指が、10日交替で勤めていたと記されている。

 

(3)本陣・脇本陣

宿場には、問屋場とは別に参勤交代の大名・公家・幕府役人そして外国使節などの、いわゆる公的旅行者が休泊する使節として本陣と脇本陣があった。柏原宿にはそれらがおのおの1軒ずつ建っていた。ともに宿場のほぼ中央、市場川の東側に本陣が、さらに2軒おいて脇本陣が設けられていた。

現在、本陣・脇本陣とも、街道筋にその姿を留めてはいないが、本陣については絵図

 

 

 

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