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他地区の大工が市場庄の町屋の建築に関わっていた例としては、大正期の嬉野の丸山長蔵大工が挙げられる。市場庄の町並みは戸数―五〇戸前後に過ぎないが、少なくとも昭和戦前期までは市場庄の町屋は、市場庄に居住する大工の子によって作られるのが通例であったと考えられる。

指物

市場庄の町屋の特色の一つであるナカノマ、ミセの戸棚や仏壇は、建具とともに指物職人が仕事を行った。昭和戦前期には指物職人としては、松阪船江町の「指文(さしぶん)」や松阪西町の「指徳(さしとく)」、市場庄の「水谷(水谷木工)」が知られる。

 

6.町屋の時代的変化

町屋の建築年代による変化については、既に断片的に触れてきたが、ここで改めて整理する。

摺り上げ戸から出格子へ

街道に面する正面の建具は、次のような変化を辿っている。

エ)摺り上げ戸→障子と雨戸

2)障子と雨戸→障子と雨戸および出格子

3)障子と雨戸および出格子→アルミサッシ

摺り上げ戸はミセを利用しての商売に対応する建具であり、日中は正面を全て開放するのに便がある。市場庄では当初の建具を摺り上げ戸とする町屋は明治中頃までに建築さねたものに限られ、明治二七、八年頃の村田家住宅や大正三年の宇野房之助(分家)家住宅では摺り上げ戸ではなく、障子と雨戸の組み合わせが用いられている。また、改造によって摺り上げ戸から障子と雨戸の組み合わせに変更した例も多い。このような建具の変化は、参宮鉄道の開通後、街道交通が衰退して、家々が商売をやめ、ミセが居室としての性格を強めていったことによるものであり、明治後半を通じてこの変化が進行していったのであろう。

平入の出現

市場庄で卓越する町屋の形式は妻入二階建であるが、こねと併存して小規模な平入の平屋が近世末期には存在したと見られる。「伊勢路分間延絵図」では六軒に近い市場庄の北端に平入町屋が描かれているがこれらの現存例は未確認である。これらは町外れに立地し、これらの地区は明治初段階で地割りも中心部に比較して小規模であることから、小規模な平屋が想定される。

 

 

 

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