めに設けられ、構造的にも上屋柱を省略して、上屋と下屋を一体化する場合が多い。一方、北の下屋は必ずしも一般的ではないが、押入や床の間を設けるための半間程度の張出しとなるもの、居室を設けるための一間を越える張出しを持つもの、の二種があるが、後者の例は少ない。
背面の下屋はザシキ部分に縁を設けるためのもので、半間程度の張出しとなる。正面側では、庇屋根は上屋柱筋から腕木を出して支える。この庇屋根は折れ曲がって、南北の下屋に接続する場合も多い。
以上のように、市場庄の妻八町屋の上屋部分の規模は、極めて均質的であり、下屋によって多少の規模の拡大が可〕能ではあるものの、下屋部分を含めた全体の規模も家ごとの差は少ない。このような規模格差の乏しさは、建物間口が敷地の間口を直接反映して、規模に著しい格差のあることが一般的な平入の町屋と大きく相違する点である。
屋根と表構え
江戸末期から明治末期にかけての時期には、大屋根は切妻造桟瓦葺で、屋根勾配は五寸程の直勾配となる。軒出は二尺程度、螻羽の出は一尺五寸程度である。屋根下地は垂木上に小舞を目透かしに打ち、杉皮を張って葺土を載せる。
伊勢市の妻入町屋では、明治期には屋根を起ったものや、照り勾配を持つものが現れ、屋根の表現性が増してくるが、市場庄ではこのような例は見られない。また、大正期以降、市場庄では大屋根を入母屋造とした妻入町屋が現れる。
地盤面から桁天端までの高さは、時代が下るにつれて建ちが高くなる傾向がある。これは、時代が下るにつれ′て、表二階を本格的な居室とするために、二階階高が次第に増加していくことによるものと見られる。
このように、市場庄の町屋は主として屋根形式を指標として、概略の年代を判断することができる。
屋根構造
吹抜けやザンキなどの階下の状況に関わらず、上屋全体が同じ構造システムによっている。小屋組は上屋両端の柱上の軒桁ととミセ・ナカノマ・ザシキの土間境の柱を支点にして、梁間方向に二本の上屋梁を掛け渡し、梁間中間位置上に束柱を立てて地棟を支え、軒桁から地棟に登り梁を掛け渡す疎らな構造となる。束は地棟の位置では使用せず、また、束相互を貫で緊結することもないので、屋根裏を居室や収納に利用することは容