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5.地割

町並の地割りに関する史料には、明治六年の地割図と明治一九年の字切り図がある。これと現在の状態を比べると集落そのものに大きな変化はないが、敷地は合併や細分化が見られる。

市場庄では街道は、ほぼ南北方向に貫いており、屋敷地は街道の西側もしくは東側に位置する。市場庄の中央部の敷地は間口の広い家も多く、敷地形状も複雑でいびつであるが、両端部においてはきれいな方形型の形状で、敷地間口は中央部に比べると狭い。敷地間口は五〜一〇間程度、奥行きは位置によって、五〜二五間程度と相当の差がある。

 

6.敷地と建物

主屋は敷地の南側に余地を残して北寄りに街道に接して立ち、出入口も街道に対して設けられている。納屋や蔵などの付属屋も敷地の北側に立ち、南側は庭として開放している。主屋の平面との関係も主屋の南側の土間から敷地への開放性は高く、街道に面して正面の南寄り(伊勢寄り)の位置を占める出入口の「大戸口」のほかに、カッテ部分での出入りに用いる出入口と、通用口として常用される出入口が、ともに南側面に設けられる場合がある。このように、南側面に出入口が設けられるのは、妻入町屋に限られるようであり、平入町屋の場合は南側面も壁となるが、これらは南側に余裕のある敷地故の結果であろう。また、主屋の南面性は南側に作業庭を有する農家的でもある。

敷地奥の蔵が米や農具などを入れていたのに対して、街道に面した表部分の付属屋の蔵や納屋は冠婚葬祭用の道具などを所蔵していたりと、余裕のある敷地間口をこのような付属屋てふさぐことで富を象徴していたと考えられる。また、蔵を所有していたのは地主か商売で成功した人で、街道沿いに蔵がさ出現したのは江戸の終わり頃か明治に入ってからではないかといわねる。街道沿いに蔵が配置された理由としては、富の象徴と共に現実的な問題として次のようなことが考えられる。かつては敷地の裏のあぜ道は狭く、リヤカーがやっと通るほどであったという。そのため、年貢米を納めるのに表側に蔵があった方が、都合が良かったということである。

正面性

敷地間口は一般的な平入町屋の町並みに比べて広く、敷地間口を主屋と門、土蔵、納屋でふさぎ、町並みを建築群によって構成していく。江戸末期にはこのような町並みは定着している。

 

 

 

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