2.土地利用
集落の規模は明治も今もそれほど変わらない。小羽字も圃場整備などの影響で若干のずれがある程度である。人家があるのは街道沿いのみで、街道移設前の集落地である古市場・古屋敷の辺りには集落は見られない。
土地利用の内容も、基本的には水田を中心とした農業集落であることに変わりないが、戦後の国道の開設に伴う国道沿いの商工業の進出や、新住宅地の開発が見られるものの、街道沿いの集落そのものへの影響はほとんど見られず、現在においてもかつての集落の形態を留めているといえよう。
集落内の道の様子にも大きな変化はみられない。
3.屋号と商売
市場庄は農業集落であると共に、街道沿いの立地を踏まえた商売も営まれ、農業主体の半農半商的な性格を有していた。六軒茶屋と呼ばれた旅篭町に続き、伊勢参宮に関わる土産物や旅装束を商う店が軒を並べていた。市場文楽や浄瑠璃もあって、近隣の村でもてはやされていたという。六軒茶屋の旅篭の宿泊客各相手でもあったのか、北側の小字新宮の辺りは歓楽的性格を帯び、神楽寺などが位置する集落の中央部よりも北側の方がにぎやかであったらしい。
現在は商業的な性格はほとんどないが、それらの名残を残す様々な屋号が伝えられている。
4.字と丁目
町並は南北に縦貫する街道を軸にして人家が密集し、中央部で米之庄神社に至る東西の道を境に北邑・南邑と小字が分かれる。
社会組織としての丁に着目すると、市場庄は一〇区間に丁がお分かれ、北から順に東西合わせて一丁目、二丁目となっている。丁境はまちまちで、道で規制されているわけでもないようである。また、小字とも関係ないようである。街道から外れると、飛び地が見られるがこれらは街道沿いから移った住民のもともと属していた丁に起因している。丁境は道や小字といった地形的なものではく、血縁などの人間関係によってもたらされているのだろう。