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四章 町並の構造

 

1.町並の立地条件

かつては古市場、古屋敷の地を街道が通り、その周辺に集落が形成されていたが、天正16年(1588)に蒲生氏郷が四五百森(よいほのもり)に松阪城を築き、古道をその城下町に通したことにより、街道は現在の位置となり、それに伴い集落も移転し現在に至る。

市場崖の家並は北端では松阪市六軒町の家並と軒を連ねているが、少なくとも1860年代頃までは両集落間は途切れ、その間は縄手であった。この市場庄の北、松山の辺りは地形的に低く水がよく出ていたという。また、大雨の時には縄手の街道は冠水することもあったという。一方、南隣の大字久米の集落との間も一段低く水田になって家並が途切れている。

三雲町全体を見ても、臨海部に位置し、町全体が海抜3メートル前後の扇状地位低地という地形的条件のもと、現在畑地として残っている周辺の水田面よりわずかに高い砂堆の地に弥生時代以降の各時代の遺跡があり、市場庄をはじめ近世以降の集落もその砂堆上に形成されている。このように平地の微高地を縫って集落が形成され、今でこそ他の集落間においても家並が続いているが、土地のわずかな高低による境界が現在の集落においても踏襲されている。

街道沿いに着目すると、屋敷地は水田より地形的にわずかに高く、屋敷地裏にめぐらされた水路とその脇のあぜ道が、尾敷地と水田との境界となっている。西側においては裏の道が途中でとぎれたり、畑地へ続いていたりと水田の境界はかなりあいまいである。

街道筋の家並から水田を隔てて、小学字現角に米之庄神社がある。鎮守の森がうっそうと茂りまるで水田に浮かぶ無人島のような観を呈する。往古より市場の長宮(ながみや)(・参道・数百米)と称して熊野権現を祀り、社名にちなんで当浦を三熊野浦または明浦ともいう。一村一社の統合方針により明治41(1908)年に、旧米之庄村内の大小の神社20社が市場庄の熊野神社に合祀して米之庄神社と単称した。市場庄からは村社熊野神社境内社の姪児神社と蔵王神社、無格社新宮神社とその境内社天神社、厳島神社、山神社の6社が合祀した。

街道筋の家並の中程から少し入ったところに永平寺を本山とする曹洞宗の護法山神楽寺がある。

 

 

 

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