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この屋号は明治後期以後にも、特に生業にかかわって新たに呼称されてきた。10丁目東の下駄屋。とうし屋、10丁目西の桶屋・石屋、9丁目西の畳屋・から馬(唐鋤)・棒屋・薬屋などがある。

 

7.鉄道・道路の改廃

明治26年(1893)には参宮鉄道株式会社により津阿漕と宮川間に参宮線が敷設され、大字小津の西方の田の中に明治27年1月10日、六軒駅が開設された。明治30年(1897)には宮川・山田間が開通し、明治40年(1907)には国有鉄道になる。

六軒駅開設時には一年間の乗客が36,439人、降客が32,886人あり、 1日平均は100人ほどになり、貨物は積出しが36,937斤、到着が224人240斤であった(明治二十七年三重県統計書)。その後、乗降客も取扱貨物も倍増していくが、その反面、宿屋街の六軒は宿泊客が激減して大きく変化していく。

また昭和5年(1930)4月には津新地と新松阪間に伊勢電気鉄道が敷設され、市場庄の東方に米ノ庄駅が開設される。また昭和5年(1930)には参宮急行電鉄の中川・松阪間が開通して、市場庄の家並の南端をかすめ、伊勢街道をまたいで敷設された。昭和12毎(1937)11月には伊勢電気鉄道と交差する所に松ケ崎駅が開業する(50年のあゆみ 近畿日本鉄道株式会社)。

鉄道の整備に対し道路整備はかなり遅れて着手された。昭和27年(1952)4月までは東京と伊勢間が国道1号であり、狭い伊勢街道をそのまま自動車も通っていた。

その後、東京と大阪間が国道1号となり、四日市市追分と伊勢間は国遭23号になる。この一般国道23号のうちでも津市大字岩田と度会郡小俣間は昭和18年度から1次改築が着手されていたが、三雲町内の区間が完成したのは昭和28年(1953)であった(五十年のあゆみ 建設省中部地方建設局三重工事事務所)。

伊勢電気鉄道よりさらに東に離れた新設の路線であった。街道筋の家々はやっと騒音や天気の時の砂埃、雨天の泥はねなどから解放されたのである。伊勢街道も県道になるが、道路の舗装はずっと後のことである。

 

 

 

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