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「忘れ井」は近世の地誌には必ず取り上げられていて、市場庄にあったとする『三国地志』、一志郡嬉野町宮古(みやこ)とする『伊勢国誌』『伊勢参宮名所図会』『勢陽五鈴遺響』などがある。ただし天仁元年(1108)は斎王の決められた年であり、斎宮群行のあった天永元年(1110)の書き誤りとされる(勢陽五鈴遺響)。『伊勢路見取絵図』には「忘井」と記して、山神の社と鳥居、石印が描かれる。

国文学からもこの和歌は、市場庄の「忘れ井」のものとされる場合が多い。ただし力点は、「忘井の水」の文学的解釈である(伊勢の歌枕とその周辺)。

 

6.生業と生活

市場庄も付近一帯の農村と変わらず、穀類には米、麦、粟、黍、稗、胡麻、大豆、小豆、芋、ソバが栽培されている。農閑期の副業には女性の毛綿稼(木綿織り)も行われていて(明治二年大指出帳)、近世でも『市場白とて上木綿在』『須川もめんとて巾せは(狭)のもめん(木綿)在』と言われていた(宝暦咄し 『松阪市史』9)。

追分の六軒に旅籠群をひかえた市場庄は宿場ではないが、明治初年頃までの旅籠に椛屋伊助、泉屋久蔵、大坂屋治兵衛(だい治)、往来する旅人を相手にしたカラクリ的の遊戯屋に的屋林助、友吉があり、道中の土産に神楽笛、鶯笛、雲雀笛、土人形、サイコロや根付などの角細工も売られていたと言う。

カラクリ的は、寛政9年(1797)の『伊勢参宮名所図会』に「機関的(からくりまと)」として絵入りにより紹介される。カラクリ的は街道筋の北方の大字中道にもあり、明治15年(1882)には一志郡長へ鑑札が申請されていて、営業されていたことがわかる(三雲庶民史)。ただしこれらの店や家が、今の家並のどのあたりになるのか、『だい治』のほかはわかっていない。

町並みの各所には様々な屋号が伝えられ、今も日常の生活の中に生きているものも多い。生業による屋号が多く、幕末から明治前期に呼称しはじめられたと思われるものには、9丁目西の大せき(大工)、8丁目西の笛屋、鍛冶屋・かじげん、7丁目東の紺屋、7丁目西の合羽屋、6丁目西の草履屋、5丁目西の道具屋、4丁目東の箱屋、3丁目西の鍛冶屋などがある。また転入者の出身地から呼称される蛸路(たこじ)屋(松阪市)、阿坂屋(岡市)、殿村屋(岡市)、江戸屋などがあるほか、氏名の略称による大治(大阪屋治兵衛)もある。

 

 

 

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