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5.社寺と伝承地(由緒沿革、位置、合祀)

街道筋の家並みから水田を隔てて、市場(いちば)の長宮(ながみや)さんと呼ばれてきた字権現角667番地に米ノ庄神社がある。『伊勢路見取絵図』では、熊野三社権現を一番奥に祭り、浜宮、児ノ宮(蛭児社か)、蔵王ノ社などの社殿と参道の鳥居が並ぶ。南方に社護神(しゃごじ)、市神(いちがみ)の社と鳥居を描く。

一村一社の統合方針により、明治41年(1908)1月22日には、旧米ノ庄村内の大小の神社20社が市場庄の熊野神社に合祀して、米ノ庄神社と単称することが許可され、3月29日に地元の関係者により執行された。

大字市場庄からは村社熊野神社境内社の蛭児神社と蔵王神社、無格社新宮神社とその境内社天神社、厳島神社、山神社の6社、大字久米からはいずれも村社の南須賀神社、北須賀神社、宇気比神社、三狐神社の4社、大字中ノ庄からは村社浦船神社と無格社の蛭児神社、清滝神社、菅原神社の4社、大字上ノ庄からは村社須賀神社とその境内社宇気比神社、国玉神社、稲荷神社と無格社稲荷神社の5社の合祀であった(三重県神職管理所公報)。

市場の家並みの中ほどから少し入った字南邑(なんゆう)573番地には、永平寺を本山とする曹洞宗の護法山神楽寺がある。本尊は釈迦如来坐像。富山大安寺五世聖山巖祝が慶長16年(1611)3月が開いたという。

始めは米ノ庄神社に合祀された熊野権現社の別当寺として、舞楽を奏し祭供の道場で権現坊護国院と称し、後の慶長頃に曹洞宗に改め神楽寺と称したといわれる(三雲庶民史)。

『伊勢路見取絵図』には、イキ檗宗の門を模した山門と本堂、観音堂が描かれていて、現在もその姿に近い。この『見取絵図』には東隣に道をへだてて「庚申堂」があるが、今は神楽寺境内に移されて祭られている。

神楽寺の北側から米ノ庄神社へ至る道角には、宝暦元年(1751)1月に江戸の鳳岡関思の書いた字を刻んだ「忘井之道」の道標がある。「忘れ井」は米ノ庄神社への道の途中にあるが、『千載集』の、

天仁元年斎宮群行のとき、わすれ井といふ、所にてよめる

斎宮甲斐

わかれゆく都のかたの恋じきにいざむすびみむ忘井の水

にあやかった伝承の地であろう。

 

 

 

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