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古墳時代後期の5世紀末には人物型、馬型、家型、円筒型、朝顔型などの多数の埴輪を置いた古墳が造られている。低い平地の古墳で、その規模はいつの頃か墳丘も削平されていてわからないが、かなりの権力者の古墳であった。

最近の三重県埋蔵文化財センターの発掘調査によれば、三雲の平地には、中ノ庄遺跡の他にも、大字星合の前田町屋遺跡からは4世紀の古墳群、大字小野江の南浦遺跡からは馬型、円筒の埴輪を置いた6世紀の古墳が調査されている。

三雲の西方の一志郡嬉野町の丘陵地にある筒野古墳などが造られる以前に、伊勢平野の平地でもいち早く、初期の古墳時代を迎えていたことがわかる。

市場庄は平安時代には、9世紀後半頃から15世紀末頃まで続いた曽禰(そね)荘にお、くまれていた。この荘園は、10世紀中頃以降には京都の醍醐寺領になっていた。その荘域には現在の一志郡三雲町大字上ノ庄、大手中ノ庄、大字市場庄、大字久米、松阪市松崎浦町にあたるとされる。市場も立ち、松崎浦には港もあった。12世紀には伊勢平氏の拠点にもなり、15世紀前後には北畠家氏の支配下になって、その後は曽禰荘の名も記録から見られなくなった(講座日本荘園史6)。

16世紀の伊勢地方は織田信長、続いて豊臣秀吉の支配下に入り、市場庄郷の石高は、天正20年(1592)2月の豊臣秀次朱印状では617.91石で、つづく文禄3年(1594)の検地では741石5斗となっていた。元和5年(1619)からは和歌山藩松阪領の八重田組に属した。

市場庄村の庄屋は、堀坂川用水の水利権問題に関する文書によれば、寛永3年(1706)にかく右エ問、寛保3年(1743)に銀蔵、宝暦11年(1761)に平八、天保5年(1834)に佐十郎の名前があり、明治2年(1869)は宇野十蔵であった。

また、農業に従事しながら侍と同等の身分とされた地士(じし)には、元禄14年(1698)には米本平八、同六平、安政2年(1855)に亡くなった万濃佐十郎が居た(三雲庶民史)。

 

3.街道と町並の成立

伊勢街道は西国あるいは東国と伊勢を結ぶ幹線道路である。康永元年(1342)の坂十仏の伊勢参宮の経路は、安濃津-あこぎが浦(阿漕)-雲出川-小野古江渡-三渡(みわたり)の浜一櫛田河であり(伊勢太神宮参詣記 『大神宮叢書 紳宮参拝記大成」)、応永31年(1424)の足利義持の参宮の帰路は、「雲津のほとりに星逢の

 

 

 

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