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「防災まちづくり」に向け新たな火災評価手法を

東京大学工学部教授 小出 治

 

はじめに

阪神・淡路大震災も3年を向かえ、その教訓・体験を生かす試みが様々な方面で本格的に始められている。木造市街地での建物の倒壊と火災による被害は、本格的な「防災都市づくり」の必要性を強く訴えるものとなった。特に基盤の未整備地区の被害が甚大で、「まちづくり」による抜本的な防災対策が重要視しはじめられたのである。今、新たに「防災まちづくり」の時代を迎えるに当たって、地域の危険度の評価・対策の効果の判定などの評価技術の現状を整理し、今何が求められており、今後どのように評価技術を開発していくべきかを正しく認識することが必要とされている。ここでは、地域の火災に関わる危険性を中心に、出火・延焼速度・延焼遮断の3側面から問題点を整理し、対象となる「まちづくり」の街区レベルに対応した、より詳細な状況を柔軟に反映できる評価技術が必要であることを述べていきたい。

 

第1章 地域危険度評価の推移

 

1-1 防災対策の推移

我が国の地震対策は、昭和39年の新潟地震を契機とし開始され、以後30年を経ている。その間、社会状況の変化や防災技術の蓄積制地震の教訓などから、地震対策も変化してきている。特に、地震想定、被害想定などの防災評価技術は開始当時の昭和40年代は、まったくの無の状態から出発し、昭和50年代に1つの体系的蓄積を見た。その後は、その技術の微修正と具体的な応用の時代であった。そして、平成7年(1995年)の阪神・淡路大震災の教訓は、次への新たな技術開発の必要性を強く抱かせるものとなった。

以降、東京都における震災対策を事例にとり、危険度評価及び防災対策の推移を述べていく。

昭和40年代は、いわば暫定的対策の時期であり、関東大震災69年周期説が広くしられ、関東大震災当時の被害規模の地震が発生することが危惧され、その対策に追われた時期であった。物理的に地震の発生場所・時期が想定されたものではなく、勿論地震の発生のメカニズムも不明であった。しかし、高度経済成長を向かえ、地方自治体が中心となった防災対策も充分打てる状況になっていた反面、郊外からの急速な人口移動により、住宅難、交通混雑や公害に代表される都市問題が深刻になり始めた時代でもあった。特に、都市問題で悩む東京において、大地震は大きな政策課題であった。関東大震災の被害、その人的被害の大多数は地震にともなって発生した市街地大火によるものであり、とりあえず、江東区・墨田区・荒川区の下町3区を中心として、火災時の避難場所を確保することが急務であった。避難地の計画の研究は昭和40年代の初期に始まり、東京においては、東京都震災予防条例の制定に伴い正式に指定がなされている。また、下町対策としては、江東地区の再開発計画に基づき、防災拠点が6箇所計画され、10箇年をかけ整備される予定であった。結果的には白髭東地区のみが完成され、その他は異なった形で計画が現在も進行している。とりあえず、「火災から命を守る」暫定的対策の時代であった。

昭和50年代に入ると、この間10年の研究の成果が現れはじめた。先ず、昭和51年に東海地震が発見され、それを受け、地震予知の推進と警戒宣言を含む「大規模地震対策特別措置法」が昭和53年に制定された。また、昭和52年から5箇年にかけ、建設省による総合技術開発プロジェクト(〔総プロ〕)が開始され、幹線道路により都市を区画化し地区相互の延焼を遮断しようとする考え方が示された。この研究により、延焼と延焼遮断

 

 

 

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