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ど前のこと。県医師会長といったいっさいの公職から退いて、時間的な余裕ができたのがきっかけだという。以来、月、水、土曜日の週三回ほど神路園に出向いて、お年寄りたちを診てきた。「特養の場合、痴呆をはじめとして、治らない病気を抱えている人が多いのが特徴。ですから、治療というより看取りが大切。彼らが一日一日を生きがいを持って過ごせるような手助けをするのが私の務めだと思っています」

松本さんは、神路園に行くと、各室を回り、一人ひとりのお年寄りに声をかけ、時にはよもやま話の相手にもなる。家族と離れ、孤独に陥りがちなお年寄りには、人との接触の機会が大切と考えるからだ。もちろん、なかには痴呆が進み、話しかけても反応のない人もいるが、それでも、松本さんは何らかの形で接触を持つ努力をするという。

「ある九〇歳を超える女性の場合は、いつも口をモゴモゴさせて何かをいっていたんですが、よく聞いてみたら、それは戦時中、小学校で習った教育勅語だったんです。それで、私も彼女と一緒になって教育勅語を唱えてみたら、それまで無表情だった彼女の顔がパッと輝きました。以来、私の顔も覚えてくれて、私を見つけると本当にうれしそうな表情をするようになりました。やはり、心の琴線に触れることをすれば、生きがいに通じる。そのことを深く実感しましたね」

人はいずれは死を迎える。だが、苦しまず、痛まず、美しくそのときを迎えるためには、「一日一日を有意義に過ごすことが大切」と松本さんは強調する。それは、長年、命の尊さを目の当たりにしてきた医者としての実感であり、松本さん自身の生き方そのものでもある。

「寝たきりの防止や、お年寄りたちに生きがいを持たせるために、まだまだやらなければならないこと、改善しなければならない課題はたくさんありますから、命ある限り、高齢者のケアに携わっていきたいと思っています」

自身も「高齢者世代」に入りながら、地域のお年寄りとのふれあいに心を砕く松本さん。その人生の玉手箱には、たくさんの方の笑顔が詰まっているに違いない。

 

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特養で開かれた誕生会。「向かって右側2人目の白衣の男が私です」

 

 

 

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