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くされる。当時、唯一、心の支えとしていたのが前述の療養雑誌で、得意の詩や川柳を投稿していた。

二人が出会ったのは、この雑誌を通じてのこと。武治さんは最初こそ一編集者に過ぎなかったが、退職者が続出してわずか入社三カ月で編集長に就任。「結核を患った頃に、化学療法が出まして、運がよかったんでしょうね。余命五年といわれていたのに、無事回復することができました。本来なら寺に戻るべきだったんですが、もうあんな激務はできないと。編集者の道を選んだことで、しばらくはすったもんだがありましたが」

雑誌社の内情は苦しく、給料の遅配もあった。しかし、一度は死を宣告された命。療養者のための雑誌づくりは療養体験がある者だからこそできるのだと、気概に燃えていた武治さんは、そんなことを意にも介さず、仕事に熱中した。その頃みわさんは、「結核をやった人間は田舎では務まらないし、結婚もできない」と、上京して保険会社に勤めた。やがて編集部の手伝いをするうちに二人の交際がはじまり、昭和三四年に結婚、二児をもうける。

昭和四六年、武治さんは役員にまでなり一六年勤めた会社を退職。経営者が代替わりし新しい会社の方針とのギャップは埋めようもなく、自ら引くことで決着をつけたのだ。すでにフリーの医学ジャーナリストとして雑誌に寄稿したりテレビ出演するなどしていたため、ある程度の収入はあったが、二人の子供はまだ幼く、しかも建てたばかりの家のローンも抱えていた。「不思議なことに収入のことなんて全然気にならなかったんです。のんきだったのかしらねえ。車の運転を習いに行ったりしてたんですよ。それよりも自宅の電話を開放して電話相談をはじめるといった時の方がずっと心配でした」とみわさんは振り返る。

『―医学ジャーナリストとして、仏教者として、人さまのお役に立ちたい彼の信念からだった。勤めから帰った夜の八時から九時の間だけの医療相談だと言った。医学雑誌の編集長だった。間違った医療を受けた人々の相談を職場でも受けていた。当然巻き込まれるであろう私は大反対した。(中略)私はかつての母のすさまじい奉仕活動を思った。決して報われるものでもないことも見てきた。とても私にはできない。「おこがましい」とも言った』(西来みわ著「風車」・自家版)

結局、そんな反対にもめげず「ダイヤルフレンド」は開設された。その直後、朝日新聞が「日本民間電話相談第一号」として取り上げ、ラジオやテレビ、週刊誌から取材が相次ぎ、二四時間電話に振り回される日々がはじまった。しかし、悪いことばかりではなかった。この騒動のお陰で、ある電機メーカーからは当時まだ十数万円もした留守番電話がプレゼントされ、また武治さんは朝日新聞杜の雑誌「ホームドクター」の編集長に迎えられたのだ。給料はかつての二倍に。しかし、新たな仕事に没頭する武治さんはこれまでにも増して多忙になり、当然ながらみわさんの負担は増えていく。

「当初は肩に力が入っていて、どうしても電話に出なければならない、電話から離れてはいけないように思い込んでいましたから、クタクタに疲れてしまって。今でこそ自分ができる時間にやればいいんだと思えるんですが」とみわさん。汚れたままの食器、やりかけの洗濯物に心を急き立てながら受話器を取る日々。どのように家事・育児をこなしたのか、若かったからできたとしか今は思えない、と笑う。武治さんが「この人は本当に大変だったでしょう。私は仕事に出ますので、いつも電話の相手をしているわけじゃありませんが、それこそ四六時中でしたから」という。

いくら時間を限っていても、悩み事を抱え切羽詰まっている人は、そんなことにお構いなく夜中でも明け方でも電話をかけてくる。「これから死ぬ」といって、夫妻を慌てさせた電話もあった。

 

 

 

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