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トーベンの交響曲と深くつきあったことによって、西洋音楽の構築性に開眼し、それを自分の物にしようと奮闘した。

当時エタハリッヒ・シュナイダーというチェンバリストが滞日していて、「現代音楽と日本の作曲家」という研究書を著したのだが、その中でこういう小倉を賞揚している。

「身振りのみの俳優の国、ここに一人見せかけでなくて何ものかで在ることを追求するものがいる。際限なく『今日的』であろうとする意欲の国に、ここに一人、自分で設定した目標を回避するよりは、むしろ永遠の弟子、模倣者等々といった悪罵を甘んじて受けようとしているものがいる。彼の設定した目標とは、つまり西洋の音楽を真に建設しようということである。これほど歴然たる天分と真正な感受性を持ちながら、これ程自ら意識して『独創性』の断念を自分に課するとは――』(吉田秀和記)

大した肩の入れ方だろう。アカデミックな技術或いは理論については、小倉以上の達人が日本にもいたわけだが、彼の音楽はパスティッシュであるにしても、それにも拘らず、大変生き生きとして「歴然たる天分と真正な感受性をうかがわせる」ものだったのである。“交響組曲イ短調”(1941)にはCDもあるから是非きいていただきたい。こういうものは他にもありそうで、現実には他にない、日本の洋楽作曲史上重要な作品である。

ところがこれ程期待されながら小倉自身はこの途を捨てる。1951年彼は当時の作品をすべて破棄してしまったのである。“組曲イ短調”だけが何かの偶然でそれをまぬがれて残った。

この転進の理由、それについての内面の心の動きは、当時相当親しくつきあっていたつもりの私にも、あかしてもらえなかった。

しかし、ともかく、戦後すぐにきかれるようになった、バルトーク晩年の作品がきっかけになったことはたしかである。そこに民族的特質を生かしながら、しかも現代的な新しい構築的音楽の可能性をみたのであろう。普通ならここでバルトークの研究から始めるのだろうが、彼はいきなり、自分なりの作曲をした。“2台のピアノのための舞踏組曲”(1953)。大へん生き生きしたリズムの作品、バルトークのパスティッシュなんかでなくもっと大らかな音楽である。演奏される機会も多く、彼の代表作と言っていいであろう。管弦楽版もあり、それにはCDもある。

このあとで彼は、日本民謡に近づくのだが、これは自然のなりゆきかもしれない、“東北地方のわらべ唄による九つの無伴奏合唱曲”(1958)以後数曲の合唱曲、これらは出版もされよく上演されている。彼の民謡編作の特色は、5音音階に基づく所謂日本的和声法なんかによらず、平気で3度構成和音を用い、しめっぽくなくからっとしていること、かつて意識して対立していた、民族主義的様式をとり入れたわけでない。器楽曲にも“オーケストラのための日本民謡による五楽章”(1957)があるが、ややもすると陰湿に流れる日本的美意識には無縁で、従って邦楽器のためには作曲しなかった。

しかし「日本語」については、非常に強い関心を持った。彼は文章を書くのが好きで、凝りに凝って、時にそれが作曲の妨げにさえなったのだが、日本語についての考察を書きためて、1977年「日本の耳」(岩波新書)としてまとめている。(1970年に「現代音楽を語る」というものも出している)「音楽にとって言語は、絵画にとっての自然のようなものである」という至言か彼にはあるが、そういう根本思想に基いて、自分らしい音楽を確立しようとした。

しかしこの点に関しても、彼は理屈よりもまず実践なのである。既に1956年に歌曲“木下夕爾の詩による「八つの歌」”を作り、翌年オペラ“寝太”を作曲している。そしてそれで日本語と格闘した経験を器楽曲にも生かそうとした。

以後の彼の主要作品としては“シンフォニー・卜調”(1968)、“ヴァイオリン協奏曲”(1971)、“弦楽合奏のためのコンポジション”(1972)、“オーケストラのためのコンポジション嬰へ調”(1975)などがあって、最後の作品“チェロ協奏曲”(1980)に到るわけだが、民謡調ははじめはあるにしても、次第に遠のき、“うた”というよりは“語り”に近い、かわいた透明な音楽を指向するように思われる。彼が目の敵としていたのが「ロマン主義」だから、およそねっとりしたところがなく、フォルテも情緒の高まりによっててなく、癇癪のように激発する。彼の性質そのままである。彼は若い頃に目を開かされた西洋近代音楽に於ける構築性、そ

 

 

 

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