小倉朗(1916〜1990)生れは実は福岡なのだが、生後3ケ月で東京に移り育った。少し“べらんめえ”口調でざっくばらんで短気なところ、いかにも江戸っ子らしかった。
彼の美学的信条や作品様式には一生の間に変遷があるが、この気質は作品に一貫して反映しているようだ。
大変早熟であった。21才の時の作品“ピアノ・ソナチネ”が印刷出版されているし、現在CDも入手可能。はじめ深井史郎に師事していたのでその影響もあったのだろう、当時パリで流行した所謂新古典主義的な軽妙な音楽だが、この若さでこれをいきなりまとめてしまったのは、才能の証であろう。
彼は論理を積みあげて考えるたちではなかったが、素晴らしい“かん”の持ち主だったのである。
それに頼って、流行に支配される日本の芸術的風土の中を、要領よく渡ってゆくことも或は出来たであろうに、彼はそうしなかった。
持前の“かん”で西洋近代音楽の本質を嗅ぎあて、それにこだわることになった。
東西芸術の融合に新しさを求める現代からすると信じ難いことだろうが、当時の日本の作曲界は、洋楽をするならその技術を本格的に学ぶべきだとする言わば西欧派と、日本人である以上まず民族的特質を顕現すべきだとする民族派に二分していた。小倉は深井のあと池内友次郎に師事して、フランス流の技術を修得したのだから西欧派だったのだが、アカデミックな習練よりは、ローゼンシュトックに指揮を学んだ際にベー