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翌1662年、鄭成功は台湾全域を東都と称し、政権を発足させた。鄭成功没後、息子の鄭経が承継し、東都を東寧と改め、内閣制度や軍を整備し、文教を興すなどしたので、福建、広東の沿海の人々が渡台し、台湾の人口は一時激増し、20万近くになった。また、中国大陸で実施されていた科挙試験も台湾に導入した。こうした動きに対し清軍は1683年澎湖を占領し、鄭軍は降伏した。

清朝内部では台湾が未開発で税収が少ないこと、海峡を隔てて統治しにくいことなど台湾を領地とすることに疑念を提起する者も少なからずいたが、結局清朝は1684年、台湾を福建省に隷属させ、「福建台湾省」と称し、台湾に1府3県を置いた。清朝は台湾への移民を禁止したが、大陸で戦乱や飢餓が起きる度に禁令を破って密航する者が絶えなかった。その後、台湾の開発は南から北へ進んだが、山間の地の開発にあたり移民が盛んになった。

1800年代に入ると、台湾の治安は乱れ、外国人がしばしば殺害された。これに対し清朝は、「台湾は化外の地」と称して、責任をとらなかった。さらに19世紀半ばになると植民地の分割を巡る列強の動きが激化したが、台湾に対しては植民地化の動きよりも、台湾に入植していた漢族系移民社会との交易を求めた。その結果、台南、淡水、高雄などが開港された。

そうした中、1871年、琉球人が台東に漂着し、54人が殺害された事件について、日本の外務卿副島種臣が清国を訪問して交渉したものの、清国は「まだわが王化に服さぬ台湾生蕃に対し、責任をとることはできぬ」と回答したため、副島は「我が方で処理する」と宣言した。日本は1874年、台湾に派兵し、牡丹社蕃を討伐した(牡丹社事件)。日本はこの出兵を利用して、同年清との間に北京条約を締結し、多額の賠償金を得るとともに、琉球の日本への帰属を認めさせた。また、フランス艦隊は澎湖を占領、翌年清仏戦争に発展した。

こうした中で、台湾は米や砂糖の生産地として経済的地歩を高め、清は1885年に正式に台湾を省とした。人口も1893年には250万人を超えていた。日清戦争に敗れた清は、1895年、下関条約により台湾を日本に割譲した。このとき、唐景嵩によって「台湾民主国」が樹立されたものの、2週間も経たずに崩壊、日本は同年11月全島を平定した。日本は土地制度の近代化や度量衡制度・貨幣の統一など、投資の安全と経済循環の拡大のための基礎的事業を整備し、鉄道、道路、港湾などの増設と拡張を精力的に推進した。これら財源の一部は、阿片、塩、酒、煙草の専売制度を通じて調達された。また、台湾人の皇民化運動を推進し、台湾語の使用制限、伝統的演劇・音楽の禁止、日本語の強制使用、日本式姓名への改姓運動などを行った。そして、太平洋戦争の勃発後、先住民系の青年たちは日本人の同胞扱いとなり、南方作戦に「高砂儀勇隊」として動員された。

一方、中国大陸では1911年に辛亥革命が起こり、翌12年南京において孫文を臨時総統とする中華民国がアジア最初の共和国として設立された。しかし実権は、北京の表世凱が握っており、孫文は蜂起と失敗を繰り返した。

 

 

 

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