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1943年11月のカイロ宣言で「第1次大戦後、日本が奪った太平洋諸島を取り上げ、満州、台湾などの中国への返還、朝鮮独立」などが決定され、日本は1945年8月のポツダム宣言を受諾して、降伏した。そして、中華民国政府軍が台湾に上陸し、中華民国に復帰した(台湾の祖国復帰。光復と呼ぶ)。しかし、復帰後の政治・行政・経済は大陸から渡来した外省人により進められ、本省人は排除され、中国大陸の戦後の混乱、インフレが台湾に波及したこともあり、本省人による外省人に対する不満が高まっていった。

1947年2月27日、ヤミ煙草摘発の外省人の警官と屋台の煙草売りの婦人がもみ合いとなり、警官が婦人を銃床で殴打した。事の成り行きを見守っていた民衆の憤懣が極度に先鋭化し、警官は囲みを解こうとして発砲し、これが民衆の1人を直撃して即死した。激怒した民衆は、警官の逮捕と銃殺を求めて当局に詰め寄った。明けて28日、当局から納得できる回答を得られなかった民衆はその数を増し、公用車をひっくり返すなど暴徒化した。これに恐れをなした衛兵は公舎の階上から機関銃を掃射し、デモ隊に死傷者が出た。民衆の憤激は頂点に達し、外省人と見ればリンチを加え、外省人経営の店舗を襲い、狼藉の限りを尽くす次第となった。

台北の放送局を占拠していた群衆は、ラジオを通じて事件の経緯を報告すると同時に抗議行動への総決起を呼びかけた。そして暴動の波は瞬く間に全台湾に伝播した。外省人と見れば老若男女の別なくリンチを加え、官公署と公営機関を襲った。この事件を2・28事件という。

この事件の処理のために、当局側代表者や本省籍の民意代表らからなる処理委員会が各地に設置され、当局に対し汚職官吏の逮捕や本省人の登用などの要求を行った。しかし、各地の処理委員会の足並みが揃わず、青年・学生を主体とする本省側の武装部隊も脆弱で、3月8日から9日にかけて、大陸から送られた中華民国政府軍の支援軍2個師団により鎮圧された。鎮圧軍の本省人に対する弾圧は凄惨を極めたと言われており、正確な死者数は明らかでないが、2万人を超えるという説もある。

中国大陸では中華民国政府の政権党である国民党と中国共産党が内戦を繰り広げていたが、次第に国府軍が劣勢となり、中共軍は1949年1月、北京に無血入城し、中華民国総統であった蒋介石は下野した。そして同年10月、中華人民共和国が成立した。中華民国政府は、南京陥落後、広州、重慶、成都を転々としていたが、1949年12月7日、台北に臨時首都を置いた。そして、共産党に追われた蒋介石率いる国民党は台湾に渡り、蒋介石は中華民国総統に復帰した。なお、1948年から1950年にかけて中国大陸から台湾には200万人以上の者が移住したと言われている。

1971年、中華人民共和国が国連に加盟する際、中華民国は国連を脱退、1972年日中国交回復に伴い、日台国交は断絶された。1975年、蒋介石が死去し、息子の蒋経国が総統に就任した。

 

 

 

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