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ラーマ1世は、宮中の諸制度を改めるなどアユタヤ朝の再興をめざし、対外的には対中貿易を推進した。ラーマ1世の統治時代にはビルマは依然としてタイにとって脅威だったが、ラーマ1世はビルマの侵攻を防いだだけでなく、逆にビルマに攻め入り、チェンマイなどをその領土に加え、また、マレーのケダなどの諸州を属領とした。

19世紀に入ると、イギリスなどの西欧諸国はその技術力や経済力を背景にアジアやアフリカ諸国との間で有利な条件で貿易を行っていたが、ラーマ4世モンクット王は、西欧列強に対して門戸を開放、イギリス、アメリカ、フランスと相次いで修好通商条約を締結した。またラーマ4世は、西欧諸国の技術を導入し、道路や運河の整備、貨幣の鋳造などを実施した。

ラーマ5世チュラロンコン王は、イギリス、フランスの両植民地主義勢力の圧力を受けながらも、領土の一部を西欧諸国に割譲するなど巧みな外交政策によって植民地化の危機を回避した。国内的には行政組織を近代化し、国家の諸制度を整備してタイを近代国家へと脱皮させた。タイが中央集権化し、官僚国家的になったのはこの時代である。また、同王の時代に通信が発達し、郵便制度が導入され、鉄道網も整備した。

ラーマ7世チャーティボック王は、タイを近代国家にし、国際社会で生き抜くためには、近代的、自由な憲法を制定する必要があると認識していた。同王は憲法制定の必要性を王族に説いていたが、当時の世界経済恐慌の影響から政府支出が3分の1削減され、王政に不満を抱いていた軍人や官僚がクーデタを起こし、専制君主制から立憲君主制に移行した。流血を見ずに体制が移行したため無血革命(立憲革命)と呼ばれている。ときに1932年6月24日であった。

1932年の立憲革命後、軍部と文官の間で、さらに軍内部、軍と警察との間で政権をめぐって幾多の抗争が続いたが、1957年以降陸軍の主導的地位が確立され、サリット、タノムの軍人政権が続いた。アセアンが成立したのは1967年で、タノム政権の時代だった。1973年10月の学生の蜂起を契機に、タノム政権が崩壊、議会制民主主義に基づくSanya教授を首班とする文民内閣が成立した。しかし3年後、軍部による政変により同Sanya政権は崩壊、軍部を背景としたターニン内閣が成立し、さらに、クリアンサック内閣、プレム内閣と軍人首相が続いた。1988年にチャチャイ総大将が首相に選出されたが、1992年に軍部によるクーデタによりチャチャイ首相は追放され、外交官で企業家のアナン氏が暫定内閣を構成した。

その後の総選挙の結果、スチンダー前陸軍司令官を首班とするスチンダー内閣が1992年4月に成立したが、同年5月、民主主義を求める大衆による政治デモが流血事件を引き起こし、スチンダー首相は辞任し、第2次アナン暫定内閣が成立した。同年9月の総選挙の結果、旧野党連合が過半数を制したため、文民のチュアン民主党党首を首班とするチュアン内閣が成立した。

 

 

 

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