第2編
タイの公務員制度
序章 概説
1 歴史
タイ人の起源は未だ定かではない。約4500年前に中国雲南の北西部にいた民族が漢民族の圧迫を受けて、貴州、広東、さらにはタイ、ミャンマー、ラオスに移り住むようになったという説が有力であるが、元々タイ人の起源はタイにあり、その後、中国を含め、タイ人が各地に移住したという説もある。
9世紀から11世紀にかけて現在のタイの中央部及び西部はモン族が支配し、Dvaravatiという国家が存在していたが、同国の詳細は明らかになっていない。ただ、同国の文化は、インドの影響を強く受けていたと言われている。
11世紀から12世紀にかけて、モン族による支配は領土・文化的な拡大を続けていたクメール帝国により取って代わられた。クメール帝国の首都はアンコールで、同国はタイーインドシナの貿易を支配し、現在のタイのほとんど全土を統治するに至った。統治形式は直接統治ではなく、家臣を通じて権力を行使していた。
歴史上明らかになっているタイ族による最初の国家形成は13世紀前半のことで、タイ族が当時カンポディアのアンコール朝の支配下にあったスコータイを占拠し、その地を中心として建設したスコータイ朝である。スコータイ朝は当初クメール帝国の影響下にあったが、徐々にその支配を脱していった。
スコータイ朝が最も栄えたのは第3代ラームカムヘン王の時代で、支配地域を拡大した。同王の時代は基本的には自給自足経済であったが、交易も盛んで、1292年頃から元朝に入貢することによりタイ製品を中国において売るとともに、中国製品を購入することを可能にした。また、同王はモン語、クメール語を基礎としてタイ文字を創作し、タイ民族独自の文化発展の基礎を築いた。この時代にスリランカから小乗仏教が伝えられ、仏教建築の様式などにも影響を与えた。
その後、1351年、チャオブラヤー川下流域のアユタヤを中心に、新たなタイの国家アユタヤ朝が成立し、やがてスコータイ王国も併合して統一国家を形成した。アユタヤ朝は400年以上にわたり続いたが、勢力圏の拡大、行政機構の整備、諸外国との交易等によってやがて東南アジア大陸部最大の商業・政治都市へと発展した。対外貿易が盛んで、17世紀に入り日本人、オランダ人などの外国商人が渡来しさらに活発化し、アユタヤには日本人町も形成された。
アユタヤ朝が滅亡した後、中国民族の血が混じった軍人のタークシン王が1767年、チャオプラヤー川のより河口に近いトンブリーに新たな都を建設した。しかし、トンブリー朝は15年間で滅亡、代わってタークシン王の軍人仲間だったチャクリ(ラーマ1世)が1782年、都を対岸のバンコクに移して、現在のラタナコーシン朝を開いた。