(5) 9月30日事件とスハルト時代
65年10月1日未明に起きた国軍の一部と共産党系の一部による陸軍首脳の殺害事件を契機に発生した政治的動乱により、陸軍は政治的ライバルである共産党を徹底的に弾圧した。この事件を契機にスハルト将軍はスカルノより実権を奪い、68年に正式に大統領に就任した。
スハルト新政権は、既成政党に対抗する支持組織として陸軍と行政機構を主体とする翼賛団体ゴルカルを創設し、議会での安定多数の確保を実現した。共産党崩壊後の主たる反対勢力であるイスラム勢力に対しては、80年代前半に、パンチェシラ(建国5原則、?@唯一神への信仰?A人道主義?B民族主義?C民主主義?D社会正義)を法律により全ての政党と社会団体に唯一の原理として強制させることにより、その封じ込めに成功した。
また、74年にはポルトガルの政変により突如植民地支配から解放された東ティモールを軍事占領し、国連総会の撤退要求決議を無視して、76年に27番目の州として併合した。
外交面では西側との協調とアセアン重視の姿勢をとり続けている。90年には9月30日事件により断絶していた中国との国交を回復し、冷戦後の国際舞台でアセアンの大国として発言力を強めつつある。
90年代に入り、スハルトの高齢からポストスハルト時代が注目されるようになってきた。98年の選挙に際しては、スハルトが七選するとの見方が有力である一方で、スハルトの健康状態の悪化も伝えられ、その去就に関心が集まっている。
4 経済
政治的・経済的混乱を招いたスカルノ政権を引き継いだスハルトは、西側諸国からの援助を積極的に活用し、インドネシア経済の工業化に成功した。69年に開始された第1次5カ年計画から93年に終了した第5次計画までの25年間を第1次長期計画と位置付けているが、その間インドネシアは高度経済成長を実現した。
69年当時の一人当り国民所得はUS$70であったものが、94年にはUS$880にまで上昇し、25年間のGDP成長率は平均6.5%となっている。工業化が進行し、91年にはGDPに占める工業部門の比率が農業部門を上回った。貿易収支は石油により常に黒字を維持していたが、輸出に占める石油・ガスの比率も87年以降50%を割り、工業品の輸出に占める比率が拡大している。また、農業面においても84年に米の自給が達成された。
さらに、貧困線以下の人口は70年に総人口の60% 7千万人だったものが90年には15% 2千7百万人までに減少し、また識字率も92%に達する等、スハルトの開発政策は民生面においても成果が現われている。