台湾ニューウェーヴは1980年代初期に登場した。1980年代という時代は、台湾の社会や政治が激しく変化した時代であった。国民党が大陸を離れて台湾に移り、安定した統治が30年続いた後、国家権力が揺るぎ始めた。戒厳令が解除され、反対党が正式に合法化され、海峡両岸の往来が再び可能となり、高度な工業都市文化が形成され、人々は自由に国を出て観光旅行ができるようになり、さらには情報が洪水のように流入すると、台湾の一般庶民は驚異的な思想革命を経験した。
こうした激変に呼応するのが、映画と演劇の革命である。この2つはこれまでと断絶した形式と体質で、新しい時代と新しい観客を呼び寄せた。とくに台湾ニューウェーヴは、従来の制限を突き破った円熟の美学と自らの土地への現実的な関心が、国際的に評価を得ており、台湾が外交で次々と窮地に立たされるなか、ニューウェーヴはつねにアイデンティティーを求める芸術的表現(ディスクール)となった。
戒厳令解除の前後、台湾人民の政治的自覚の意識的啓蒙により、政治的タブーのなかでほこりを被っていた歴史の間隙に対し、焦燥感が生じた。各種の文書や資料が大量に世に出ると、社会全体が熱心に歴史の再構築を目指した。そして侯孝賢の『悲情城市』(89)は歴史を記述するという使命感で、救済と償いの意味を持つ最高峰と推された。この年代のニューウェーヴは、過去数十年の逃避主義の映画が作った映像の歴史的空白を埋めるかのように、懸命に過去を追い求め、記憶を組み直し、我が身に歴史家の使命を付与したかのようであった。