日本財団 図書館


この他に、余為彦の『月光少年』(93)や黄明川の『西部来的人』(90)も単純な古典的写実主義で歴史と記憶に直面することを拒否している。超現実主義の幻想、夢想、曲がりくねった回想、荒唐無稽な伝説、これらは鬼魂のように時間の回廊を解き放つことにはならず、反対に生きることヘの重い負担となった。

 

モンタージュが織りなす都会の憂鬱

90年代の映画製作者には80年代の古典写実形式にもどる手段がなく、写実に取って代わるものと言えば、農業社会への懐かしさであり、幼年期への郷愁である。しかしこれらがメディアの荒波に揉まれ、荒唐無稽で雑多な政治経済や騒々しく低俗な都会文化にかき回されると、人々は目が眩み、身の置きどころに困りはてる。秩序や倫理が崩壊し、道徳が衰退した20世紀末、台湾はあたかも今まで隠れていた濁流がショーの舞台に沸き上がった様相を呈し、それまでに蓄えられていた政治、社会、経済のあらしが吹き荒れた。

精神的に打ちひしがれた庶民は、現実の混乱に萎縮し、歴史を回顧し整理する余裕などもはやない。生活の現実はずたずたで、オーバーラップした断片の寄せ集めで、それは交錯し入り乱れ、所謂順序だった秩序もなければ、軽重緩急もない。そこで生まれたものは、破壊と壊滅、死と別れである。それらは多く都会で生じ、中下流の社会階層に多く、彼らの世界観は悲観的で頽廃的である。

ロングショットの写実美学で捕えることは、もはや記憶の時空が続くことを述べるのに適した手法ではなくなり、ロングショットは当てのない漫然とした無駄遣いに変わり(そこで固定レンズは贅沢になりはてた)。大空や大自然のショットも、もはや救済でも安らぎでもなくなった。生命は無残に奪われ、そしてどうしようもない不安と暴力。こうした作品の代表作としては、張作驥の『チュンと家族』(96)、何平の『十八』(93)と『國道封閉』(94)、徐小明の『天幻城市』(93)、陳国富の『宝島トレジャー・アイランド』(93)、侯孝賢の『憂鬱な楽園』(96)、蔡陽明の『阿呆』(92)がある。

もしロングショットの美学を使わないとすると、こうした作品は通常モンタージュを取り合わせ、生活経験を脈絡のない段落(エピソード)に分ける。そしてその間に詰められるのはヒステリーに似た焦燥感、あるいは荒唐無稽で殺伐とした自嘲かも知れない。例えば王財祥の『逃亡者的恰恰』(96)、符昌峰の『絶地反撃』(98)、瞿友寧の『假面超人』(97)、王小棣の『我的神経病』(94)、陳玉勲の『熱帯魚』(95)や『ラブゴーゴー』、邱銘城の『我的一票総統』(94)が該当する。

 

孤独感と倫理上の犯罪

都会の夢想や商工業文化に従い現れるのが、隔絶した孤独感と徹底した疎外感である。このイメージと世界観を遺憾なく発揮しているのが蔡明亮である。この偶像破壊の監督がメガホンを執ると、ニューウェーヴの良き伝統とは別の新しい道が切り開かれ、『青春神話』(92)から『愛情萬歳』(94)を経て『河』(96)、『洞』(98)に至るまで、蔡明亮作品はどれも一貫して心の砂漠とカフカ風の荒涼とした境地を現している。

蔡明亮を代表とする新しい監督は、ニューウェーヴの第2の波である。彼らには前の世代が持つ使命感はないし、歴史への執念もない。反対に、彼らは集体記憶の束縛から脱し、個人の内なる世界の探究と欲望との葛藤に重きを置いている。レンズは確かに依然としてニューシネマの固定したロングショットの特色を継承しているが、蔡明亮の空間はモンタージュをコラージュ風にしたスタイルである。彼の映画に登場する人物は、みな独自の空間を占め、互いに行き来もない(例えば『愛情萬歳』と『河』)。彼らは孤独ではあるが、彼らの孤独には安心感がある。もし偶然に他人の空間に入り込むと、残酷な災難や障害が待ち構えている。『愛情萬歳』の終わりの数分間にも及ぶ働哭、そして『河』のなかの観客の度肝を抜くサウナでのラブシーン、ともに人間の尊厳が失われる時である。

蔡明亮の空間意識は、彼の20世紀末の荒涼とした人間関係に対する宣言である。たとえ同じ屋根の下に住む一家でも、各自が小さな空間を持ち、結局は他人なのである。農業社会の時代では倫理や伝統が精神の拠り所であったが、もはやそれはできない。秩序が一旦崩れると、倫理もそれにともない解体する。『河』の父子の近親相姦、そして林正盛の『放浪』(98)の姉と弟の近親相姦、

 

 

 

前ページ   目次へ   次ページ

 






日本財団図書館は、日本財団が運営しています。

  • 日本財団 THE NIPPON FOUNDATION