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この点については、カナダのバンクーバーで精神障害者の地域サポートネットワークを確立したリンンイ(林宗義)が正面から取り上げている(林宗義『分裂症は治るか』弘文堂)。リンによれば、分裂病に恐ろしいイメージを貼り付けて、定着させたのはドイツ精神医学の功罪だという。たとえば、ドイツ精神医学の「早発性痴呆」という臨床概念は、思春期に発病し「痴呆状態」に陥るというものである。

しかし実際にはこの定義に反して、分裂病の回復者は多く、患者の三分の二は回復していることを数字で示している。また、一九五〇年代に社会学者のゴッフマンによって先鞭を付けられた精神病院研究によって、精神病の症状自体が精神病院という閉鎖的な環境によって固定化し、精神症状と環境の影響を切り離して考えることは非現実的であることもわかっている。(ゴッフマン『アサイラム』誠信書房)

だととしたら、精神の障害は何か「危険で異常なこと」なのかどうか最初に考え直さなければならないし、精神病院への隔離収容という手段自体が精神病を作り出してきた可能性も視野に収めるべきだろう。しかしながら、たとえばいま家族の一人が精神病にかかったとしたら、どういった状況が生まれるのだろうか?家族たちは冷静に現実を分析しながら、この強固な偏見に立ち向かうことができるのだろうか?いや多くの場合、私たちはいとも簡単に「たいへんなことになってしまった」と絶望したり、悲観したりしてしまう。そして精神障害者の家族からしばしば聞かれるのは、自分たちしかこの子を支える者はいないという悲壮感や、一生子どもの支えになろうという自己犠牲的なヒロイズムである。あまりにも多くの人々が「自然的にこうした考え方に陥ってしまうために、私たちはそれを再点検することさえ知らないでいる。しかしこの自然な悲観主義は支持されるべきものなのだろうか?

このヒロイズムの出発点は、私たちの絶望にある。だとしたら、一見けなげな決意に見えるヒロイズムだが、その出発点は精神病や精神障害に対する偏見にある。私たちは自己犠牲の美名に酔って、この現実から顔をそむけようとするが、どんなに苦しくても、この事実を受け入れることこそ偏見を打破する最初の一歩になる。つまり、精神障害の当事者でなければ、それを忌み嫌うことと、たまたま身内に当事者がいれば絶望するというのは、まったく同じ現象の裏表なのである。いずれの態度においても、精神障害にかかる社会の偏見と差別意識が一つの常識として浸透している。だとしたら、精神障害に対する偏見から開放する道は、私たちが自然に乗っかってしまっている自分の内なる常識を点検することからはじまる。社会にはびこる偏見と向き合うための第一歩は自分自身の偏見と向き合うことだ。精神障害に対する重い偏見を脱ぎ捨てれば、そこには軽くなって開放された自分がいる。実は自分を変えることは、世間に君臨する偏見という常識を変えられることになる。常識を変えれば、文化や社会も変わっていく。すなわち、偏見開放こそ病者や障害者とともに生きる文化を作り出す端緒となるのである。精神障害者を危険視し、排除しようとする差別的文化を変革する出発点は自分自身にある。

 

?. 身体障害者の解放運動に学ぶ

 

精神分裂病と同じように社会から偏見の目で見られ、差別されてきたものに、身体障害がある。ところが、身体障害者は精神障害者よりもずっと早くから社会の偏見や差別と戦い、人権と社会への完全参加を求めて解放運動に取り組んできた。これは精神障害者の解放を考えるときに非常に参考になる。

差別されるとはどういうことだろうか。それは例えば自分が障害を持っているというだけで、自分の存在そのものが否定されることである。自分の身体が健常者と違ったり、介助を必要とするというだけで「やっかいなもの」と見なされたり、姿を現すとまわりから恐怖のまなざしで見られたりしたらどうだろうか。これこそ露骨な差別そのものである。歴史は、身体障害者たちがまさに厳しい差別にさらされてきことを証言する。

ついこのあいだまで、人々は障害それ自体を悪しきものと捉え、それを医学や訓練によって「更正」することが障害者の唯一の「社会復帰」の道であると考えていた。したがって、障害を「更正」することが

 

 

 

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