なるからである。
それ以上に問題なのは、災害想定における規模の取扱いである。今回の地震では、地震規模の想定が著しく小さかったということが問題となった。震度5程度の地震しか想定していなかったため、震度7の地震には対抗しきれなかったのである。わが国の地震対策では、記録に残されている最大級のものをもって想定地震とする慣行がある。関東地域で1923年の関東大震災クラスの地震を想定しているのもその慣行に従ったものといえる。阪神地域においても、過去の山崎地震や南海道地震などを想定していたがために、震度5の強という低い設定になっていた。ここで問題にすべきは、5か6かという数年の問題ではなく、過去の経験に縛られ過ぎて未来の可能性を予見できなかった発想法なのである。
(2)防災の目標を設定する。
危険の認識の段階の次にくるのが目標の設定の段階である。リスクをどこまで許容するのか、またどこまでの安全を要求するのかを、次に決めなければならない。あらゆる危険事象に対して人命、財産、機能のすべてに一切の被害が生じない、というのが理想ではある。しかし、現時点における技術的あるいは経済的制約から、それは不可能だと言わざるを得ない。とすれば災害の規模や種別に応じて防災の目標を定める必要が生じる。例えば、震度5では機能被害を生じさせない、震度6では財産被害を生じさせない、震度7では人命被害を生じさせない、といったふうにである。
ところで、この目標設定が経済効率主義的な考え方でなされることがある。過大な防災コストが要求される場合には、その目標を低めに設定し直すというものである。この場合、絶対的損失と相対的損失とにわけて考える必要があろう。単純にコストで計れない損失があるということである。人命被害はまさにそうで、いかなる場合においても人命被害を可能なかぎり零に近づけるという目標をたてなければならない。不可逆的な環境の破壊もそうであろう。取返しのつかない環境破壊については、それを何としてでも防止するという立場を堅持する必要がある。そのうえで、取り戻せる損失あるいは補償できる損失については、経済性とのバランスや日常性との整合を考えつつ、市民合意のもとに目標を設定するのである。
市民合意のもとに目標を投定するといったが、それは防災が自治の問題であるということに通じる。どこまでの危険を許容するかは市民自身が決めることなのである。地震で家屋が絶対に壊れていけないのか、それとも壊れても命だけ助かればよいのか、命だけではなくその後の生活が保障される必要があるのか、こうした目標について市民が率直に話しあい議論する必要がある。目標の議論を通じて、防災における行政と