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また、過去の大災害と同様に、負傷者が特定の病院に集中するという現象が今回も起きた。普段から救急患者を多く受け入れている地元の馴染みのある病院ほど患者が集中した。地域の人がとっさに思い出す病院は同じだからである。西宮市にある3つの私立病院には、当日それぞれ約1,000人が来院したのに対して、西宮市立中央病院には737人、県立西宮病院には352人と少なく、さらに、被害が軽く、医師もすぐに集まった兵庫医科大学病院には120-130人しか来院しなかった。当日の医師一人当たりの患者数をみると、灘区にある金沢病院が148人だったのに対して、兵庫医科大学病院では10人に過ぎない。大災害時に地域内の各病院への患者の集中状況をモニターし調整するシステムが全くなかったために、このような病院間アンバランスが起きたのである。

 

【病院機能の麻痺】

病院の地震による被害もひどかった。カリフォルニア州では、ロサンジェルス市近郊のサンフェルナンドで1971年に起きた地震の時、退役軍人病院が崩壊し、多くの患者が亡くなったことから、病院の建物の耐震性を特別に強化するように州法を改正したが、日本では、関東大震災級の地震にも耐えられるように建築基準法で決められているから大丈夫だとして特別の耐震基準を設定しなかった。しかし、今回のような激しい揺れに対して病院の建物は十分耐えられなかった。神戸西市民病院では、5階の一部がつぶれ、灘区にある2次救急病院の宮地病院は倒壊し、看護婦1名が犠牲となった。兵庫県保健衛生部の調査によると、被災地域内の180病院のうち、倒壊・焼失が2%、半壊・半焼で建て直しを必要とするものが7%、部分改築やかなりの補修を必要とする病院が52%もあり、軽微な補修で済むところは39%に過ぎない。手術室やレントゲン室などの被害もかなりに上っている。MRIやCTスキャンなどのハイテク機器の被告も多かった。ポートアイランドにある神戸市の中核病院、神戸市立中央市民病院は、島と対岸を結ぶ唯一の橋が被害を受けたため、肝心の時に期待された機能を全く果たせなかった。

一方、ライフライン途絶とその影響も深刻だった。最も困ったのは、断水であった。当日、7割の病院が断水したため、手術用の水の確保は勿論、傷口を洗う水もなく代用の薬品で何とか急場をしのいだ病院が多かった。地下水や備蓄タンク等で対応できた病院は2割に過ぎず、ほとんどの病院は市町や県等に水の確保を依頼せざるを得なかった。しかし、十分な水を確保することは困難で、手術の必要があるのに直ぐに実施できなかった例が数多くあった。電力は直後に止まったが、復旧が早く(当日中に8割が復旧)、しかも停電の間、自家発電で賄うことができた病院が約半数あった。自家発電装置の故障や燃料切れ等もあったが、電気で困った病院は2割に留まった。

電話の不通やパンクもすべての病院に共通した頭の痛い問題だった。必要な連絡が取れず、病院職員が市町等の関係機関まで自転車や自動車で出向き、被害の報告や救援の依頼をしなければならなかった。その結果、転送が必要な患者の受け入れについての問い合わせや搬送依頼の連絡がなかなかとれず、一向に進まなかった。

医師や看護婦の確保も問題だった。交通手段の途絶や自宅の被害のために出務できない人が多かったからである。そのような困難の中、兵庫県の調査によると、医師の6割、看護婦の4割強が当日中に出務したという。当然人手不足はあったが、重症の人を優先的に治療するトリアージが行われ、可能な限りの医療がなされた。勿論、医薬品の不足もあった。特に、診療所では、医薬分業化の影響もあり、備蓄が少なかったため、6割以上の診療所で不足したという。

このような医療機関の被害や機能低下の中で、怪我人が殺到したのである。当然、混乱もあった。検査もほとんどできず、病歴を尋ねたり、じっくり診察をすることもできなかったため、誤った診断や雑な処置に結びついた可能性も否定できないという。また、患者の名前を確認したり、カルテをつくる作業も追いつかず、患者の肉親との連絡もとれない            

 

 

 

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