火・延焼を促進したことを考えると、住宅や壁の耐震強化も大きな課題である。延焼した場合のことを考えると、長らく言われ続けている延焼遮断帯の建設がやはり有効である。今回の延焼状況を見ると、風が弱かったという幸運もあり、小さな公園やわずかな樹木の存在が延焼をくい止めており、大規模な延焼遮断帯ではなくとも十分有効な場合もある。平常時利用や財源の制約にも配慮した現実的な延焼遮断帯構想の策定が必要である。
次に大切なのは、地域内消防力の増強である。神戸市の場合、過度に消火栓に依存していたことが、初期の消防力の崩壊につながったが、耐震貯水槽の増設や自然水利の確保が不可欠である。また、神戸市の消防は基準消防力の70%しか満たしていなかったが、これを基準に近づけることも当然必要である。神戸市市街地の消防団は、可搬ポンプすら持っていなかったが、大災害時の常設消防の不足を考えた場合、消防団の消火用資機材の整備は不可欠である。また、防災市民組織の消防力強化も望まれる。バケツリレーという「竹槍で飛行機と戦う」ような惨めな事態の出現は、二度とあってはならないからである。
もちろん、個々の市町村だけで消防力を強化するのは限界があるので、消防広域応援システムの改善一―要請一辺倒主義の改善、要請手続きの簡素化、ホースや消火栓などの機具等の標準化、無線、特に全国共通波の増強、応援部隊の指揮体制の整備――も必要であるが、これらについては「阪神以降」見直され、相当改善されてきている。また、応援要請から現場到着までの時間をいかに短縮できるかを考えると、図上演習やフィールド訓練などを通じて、広域応援の運用を検証・改善する不断の努力が重要である。
【医療救護】
阪神大震災では、5万人近くの負傷者(自治省消防庁調べ95年5月15日現在)が出た。タンスや棚、梁の下敷きになったり、ガラスの破片で怪我をした人が非常に多かったからである。これらの負傷者はどのようにして病院や診療所にやってきたのであろうか。普段であれは、119番に電話し、救急車で適切な病院に収容されるような人が、被災地にはあふれていた。最も多くの死者(1,416人)を出した神戸市東灘区の消防署には、救急隊が3隊しかなく、当日フル回転したが、それでも50名程度しか搬送できなかった(普段は1日平均13名の患者を搬送)。結局、負傷者の大部分は、自ら歩いて、あるいは家族や近所の人たちに運ばれてやってきた。重傷で歩けない人は、関東大震災の時と全く同じように、戸板や畳などに乗せられて、近くの病院に運ばれてきたのである。近くの診療所は倒壊し、電話で病院を探そうとしても通じず、あちこち探し回った例が山ほどあった。
病院や診療所にやってきた患者の状態は、時間とともに変わった。宝塚市にある尚和会第一病院にも怪我人が殺到し、暗闇の中、懐中電灯の明かりの下で治療が始められた。最初は、軽傷の人(ちょっと切ったとか、すりむいたとか、打撲の人)が多かったが、そのうち骨折や脱臼などの重傷の人が増え、それが7時頃になると、さらにひどい患者が増えてきたという(横山義恭『31人のその時』彩古書房p19)。また、西宮にある兵庫医科大学病院では、「午前7時までの間に来院した患者のほとんどは、頭部又は四肢の挫創・切創の受傷者で自力で歩ける患者であった。午前7時を過ぎる頃より、脊髄損傷や胸部損傷など自力歩行不能患者あるいは重症患者となった」(日本救急医学会災害医療検討委員会編『救急医療の試練・阪神・淡路大震災』メディカ出版1995p94)。これまでの大地震の時と同じように、はじめは自分で歩ける軽傷の人が来て、次に自分では歩けない重傷の人が、そして最も遅れてすでに亡くなっている人が担ぎ込まれてきたのである。
しかし、最も大きな被害を受けた長田区にある神戸協同病院では、もっと切羽詰まっていた。地震直後から負傷者が殺到し、あっという間に野戦病院のような状態になった。加えて、重症者の来院も早かった。
【特定病院への患者の集中】