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状況が続いた。多くの患者を捌くために、屋外で診療を行ったところが5病院、28診療所もあった。まさに野戦病院だったのである。このような状況にもかかわらず、病院の98%、診療所の66%が軽症の救急外来を受け付け、病院の68%と診療所の13%が重症の救急外来を受け付けたのである。病院と診療所をあわせて、受け入れた患者は、当日だけで軽症16,516人、重症・重篤2,019人にのばり、この内2,084人が入院している。外傷等で病院や診療所で亡くなった人は856人に達した。

 

【重症患者の後方移送もうまくいかなかった】

検査機器が使用不可能になり、手術したくともできない重症患者を抱えた医師達は何とかしようと努力していた。高度な治療ができる余裕のある病院への搬送が最もよい選択肢であった。しかし、重症患者を前にして搬送先がわからなかった。西宮のある外科医院の院長は、「この災害の範囲は西宮だけなのか、近畿一帯なのか、日本全国なのか、全く見当がつかなかった。家族や救急隊にせがまれても、行くべき方向すら指示することができなかった。夕方5-6時になってようやく尼崎や大阪が受け入れてくれることが判明した」(日本救急医学会災害医療検討委員会編p62)と述べている。

芦屋市民病院では、近くに住んでいる千里救急救命センターの所長さんが「お手伝いしましょうか」と来てくれて、重症患者の域外(後方)搬送が始まった。灘区の金沢病院で、はじめに域外(大阪市立総合医療センター)へ搬送されたのはクラッシュ症候群に苦しむ大学生であった。九州から息子の安否を気づかって神戸まで飛んできた母親が電話で地元(九州)の医師に相談し、その医師の個人的つてから大阪市立総合病院が受け入れてくれることがわかり、搬送することになったのである。現場の医師は治療に追われているうえ、電話がほとんど通じないため、搬送先を探すことができなかったのである。この母親の努力によって、息子の命が助けられただけでなく、これを契機に医師が域外搬送の可能性に気づき、ヘリによる8人の搬送が実現したのである(日本救急医学会災害医療検討委員会編p14)。

被災地内の医療機関は、患者が殺到し、病院の機能は麻痺し、電話が通じないという最悪の状況の中で悪戦苦闘しており、域外搬送の必要性はわかっていても、受け入れ先の病院を探し、搬送を依頼するという役割を果たすことは無理だったのである。激震地、東灘区にある六甲アイランド病院では、骨盤、脊髄骨、四肢骨の骨折、外傷性急性腎不全等の準緊急例の増加に伴い、患者転院搬送の必要性が切実となったが、「地震当日から数日は、被災地域外の医療情報が十分に得られず、どの地域の病院が通常に機能しているのか、すでに搬送されて満床状況なのか、全く解らなかった。転院搬送先病院の選定は、医師個人レベルの人脈によるところが大きく、患者診察、水・食糧の確保などに疲れ果て、かつ被災者である医師が、その選定作業をするのはハードであった」と述べている(切田学「阪神大震災時の病院内トリアージと患者搬送」、日本救急医学界災害医療検討委員会編「救急医療の試練」メディカ出版P30)。

一方、受け入れ先となる病院は、今来るか、今来るかと待ちかまえていた。大阪市立総合医療センターでは、地震発生直後から受け入れ準備を行い、50床のベッドと食事を用意し、緊急入院に備えたが、当日夕方までの入院は大阪市内からの3名のみであった。午後5時40分になって、突然、大阪市北消防署の救急車に乗って市立芦屋病院から医師1名と負傷者3名が飛び込んできたため、被災地の状況がわかり、院内に救出医師団を編成するとともに、食料、水、医薬品を積んだ救援医師団を急派した。結局、この病院では、93名を受け入れた。阪大病院でも特殊救急部のスタッフ全員が出勤し、待機していたが、尼崎から骨盤骨折と両下肢の麻痺を伴う重症患者1名と、ヘリで県立西宮病院から搬送されたクラッシュ症候群の患者1名の計2名――いずれもあと少し搬送が遅れていれば手遅れになったという のみであった。

 

 

 

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