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な消火活動も17カ所に上ったという。その多くは、最初、消火器を集めて消火していたが、それを使い果たすと、自宅の風呂桶の水や近くの井戸、プール、防火水槽、風呂屋などの水をバケツリレーし、消火するという関東大震災や戦災の時と同じプリミティブな方法であった。

長田区西代市場では、近くの自治会長が周辺の住民に呼びかけ、防火水槽からバケツリレーで水を運び消火活動を行った。200名以上の住民が参加し、倉庫や倒れかかる家屋を引き倒すといった破壊消防やトタン板などを立てるなどした延焼阻止を同時に行い、消火に成功した。また、長田区東尻池の火災現場では、工業用ベルトの大手メーカー、三ツ星ベルトなどの自衛消防隊が住民と一体になって可搬式動力ポンプを使い、工場内の貯水槽の水などで消火活動を行った。後から到着した消防隊とともに、その後も消火を続け、午後8時までかかって鎮火に成功している。30年にも及ぶ住民主体のまちづくりが行われている長田区真野地区では、住民と消防団、地元の企業が一体になった消火活動により40軒を焼いたところで鎮火に成功している。

 

【広域応援消防の到着と海水による消火】

しかし、これらの懸命な消火活動にも拘わらず、神戸市を中心に延焼が拡大する火災現場が残り、さらに新たに発生する火災も後を絶たなかった。このような危機的状況の中で全国から駆けつけた消防隊の懸命の消火活動が延焼をくい止める決め手となった。午前9時50分に行った消防広域応援要請に基づく応援消防隊の第一陣は、直ぐ隣の三田市消防本部(連絡がつかず独自判断で出動)からで、午前11時10分に到着している。その後続の到着は、交通渋滞の影響で大幅に遅れ、大阪市消防本部からの応援が現場に到着したのは午後1時半であった。その後も順調とはいかなかったが、午後9時30分までに18都府県から109の消火隊(ポンプ車62台、タンク車46台)が到着し、本格的な消火体制が整った。

特に、水利不足に加えて、ケミカルシューズ工場や木造倒壊住宅の集積という悪条件が重なった長田区は、延焼が激しく、正午過ぎの段階でも12カ所で延焼が続き、防火水槽はほとんど底をついていた。神戸市消防局の高橋日出男警防課長は、その段階で「海水を引くしかない」と考えた(読売新聞95年3月21日)。近くの長田港から海水を引くとなると、最も遠い火災現場からは2kmも離れており、1口の放水のために100本のホースと7-8台の中継ポンプ車を繋ぐ必要があった。各地からの応援消防が集結し、1波しかない全国共通波で連絡に苦労しながら、過去に例をみない大消火作戦が始まった。18日午前0時には、消防車隊は179隊に達し、すさまじい火との攻防が翌朝まで繰り広げられた。長田区の主要な14の火災現場に対する消防車の配置を図に示したが、7台の車を中継して消火しているケースが多いことからもいかに水利確保に苦労したかがわかる。そして、翌18日の午後2時過ぎ、ようやく長田区の大火を鎮圧することに成功したのである。

焼け止まりの要因調査(関沢:1995)によると、道路。鉄道が40%、空地23%、耐火造・防火壁等24%、放水消防活動等14%となっている。このことは、消火隊が大規模な延焼をくい止めるために焼け止まり線を設定し、ぎりぎりの所で消火したことを示唆している。風が弱かったこともあり、小さな公園でも焼け止まりに役立っている。たとえば、長岡区の大国公園は、小さな公園であるが、地下に100トン水槽があり、水利拠点としても活用したが、同時に焼け止まりにも役だった。

 

【教訓1  火災に強いまちづくり】

今後の教訓としては、多くのことが指摘できる。まず重要なことは、大地震時の出火・延焼危険をいかに小さくできるかという点である。今回、新たな出火源として問題となった直後の電力復旧手順の見直し、ガスの緊急遮断システムの強化、ストーブの余熱対策などの研究が緊急に必要である。また、住宅の倒壊やモルタルなどの防火壁の落下などが出

 

 

 

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