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があることを説明した。 しかし、その子の兄が頭を深々と下げ「弟をお願いします」と涙ながらに訴えたときは、返す言葉を失ってしまったという。生と死の狭間で署員の心は大きく揺れ、警察の無力さを痛感したのである。

救出する警察官の少なさに加えて、救出活動のための資機材や重機も不足した。救出用資機材をほとんど持っていなかった警察は、現場で住民や消防団などからバールやのこぎりを借りたケースもあつたが、多くは素手で救出にあたった。このため救出に多くの時間と人手を必要とした。その後の反省で、レスキューツール、エアージャッキ、電線を切るペンチなどの救出資機材があったらという話が多く出された。また、大規模な倒壊現場では、ユンボ、ショベルカー、クレーンなどの重機なしには歯が立たなかったが、その調達も困難を極めた。事前の業者との協定すらなかったからである。西宮の夙川駅前派出所の警官が救出活動中にユニック(小型クレーン)のついたトラックをたまたま見つけ、運転手の協力を得て中学生と高校生の姉妹の救出に成功しているが、このような幸運な例は稀であった。

救出活動をする警察官を悩ませたもうひとつのことは、自分の家族等の安否に対する不安であった。妻子や実家のことが心配でも目の前で生き埋めになっている人を放っておくことはできず、その葛藤に悩んだのである。ある筈祭官は「その間も妻子と長田、兵庫の実家のことが気になりましたが、次から次への救出作業で、時の過ぎるのを忘れ、いつの間にか17日の夜になってしまいました。そして、やっとの事で、妻や両親の無事を確認したときはうれしさに目頭が熱くなり、涙が思わずでてきました」と述懐している。また、小さな子供を救出した警察官は、「私は、救出できたことでうれしい反面、自分の家族のことや妹夫婦、特に娘のようにかわいがっている2歳の姪のことが心配でたまらず、今すぐにもでも飛んで帰りたい気持ちであった」と述べている。

各警察署は、このような混乱の中で何とか体制を整えようとしていた。庁舎が倒壊し、28名の宿直員のうち10名が生き埋めになった兵庫警察署でも、6時10分には裏庭に署災害警備本部を設け、被災住民の救出活動を優先させている。その他の警察署では、それより早く災害警備本部が設置され、救出活動が始められていた。しかし、兵庫県警本部の災害警備本部は、指揮室が設置してあった港島庁舎が液状化による泥水の浸水と停電等から使用不能となったため、急速、生田警察署に設置されることになった。このため、設置時間は、6時15分と多少遅れた。さらに、通信設備上の問題から9時00分、警備本部を県庁の向かいにある生田庁舎に移すことになった。このような本部の移設は、情報の混乱を生み、全体状況の把握の遅れにつながった。

応援部隊の活動は、8時前の県警察機動隊の兵庫警察署管内への出動から始まった。10時頃には、県警察学校第3機動隊の1個小隊が芦屋市で救出活動を開始した。さらに、10時過ぎには、徳島県警機動隊が淡路島の岩屋へ、京都府警機動隊と大阪府警機動隊が伊丹市と西宮市に到着し救出活動を始めた。午後になると、県下の他署応援部隊や警視庁レスキュー部隊、国際緊急援助隊をはじめとする全国都道府県警察の特別派遣部隊が続々と到着し、その数は当日中に約2,500名にも達した。さらにその後も応援部隊が到着し、1月19日以降は、救出活動が続く9警察署に7,000名の警察官を投入し徹底的な救出。捜索が展開された(兵庫県警察本部『阪神・淡路大震災警察活動の記録』1996.1)。

 

【消防の救出活動】

一方、消防は消火と救出、患者搬送という3つの業務を抱え、警察以上に混乱していた。神戸市消防局が編集している広報誌、『雪』(95年3月号)は、消防職員の手記を通して、救出活動の様子を実に感動的に紹介している。これらの救出活動に共通しているのは、自分の身の危険も省みない消防署員としての使命感の強さであり、また近所の住民の協力がいかに重要だったかという点である。救出に必要な資機材がいかに不足していたかもうかがえる。

 

 

 

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