参考資料
吉井博明著「都市防災」(講談社現代新書96.12刊)より
【生死を分けたもの】
生死を分けたのは、ほんのわずかなことであった。屋根、天井、梁、2階が落ちてきて、生き埋めになった人が多かったが、タンスや食器棚、ピアノ、ベッドの背もたれ、石油ストーブなどによっててきたわずかな隙間が命を救ったケースも数多く見られた。中には子供が挟まれた結果できたわずかな隙間のお陰で親が助かった例もある。しかし、同時に、これらの家具が胸や頭などを直撃し、圧死した人もかなりの数に達した。家が倒壊した場合、家具は凶器にもなったが、命を助ける支えにもなったのである。
全壊住家数10万棟(世帯数19万)、うち倒壊住家数約3万棟という数から推測すると、一時的には10万人以上の人々が生き埋めになったと考えられる。倒壊した住家は、戦前から戦後に建てられた古いニ階建ての木造住宅が多かった。出入りが便利で火事の時もすぐに逃げられるというので、高齢者の多くは1階に寝ていた。このため、多くの高齢者が生き埋めになった。最初の救出活動は、家族や近所の人によって行なわれた。
東京大学社会情報研究所の神戸・西宮住民調査によると、一時的にしろ、閉じこめられた人が19%、このうち、15%は自力で脱出し、4%は他の人に助けられている。この4%(43名)の内、警察、消防、自衛隊などによって救出されたのは、非常にわずかで、この調査では1名のみであった。救出された人の実に96%が住民等による自主救出だったのである。また、日本火災学会の火災地域調査によると、低層家屋に居住していた人のうち17%が自力で出られず救出されている。そのうち全壊した家屋にいた人の場合だけ取りだしてみると、実に6割までが自力で出られず救出されている。そして、21%の人が自宅や近所で下敷きになった人を救出しようとしていた。
このように災害時には自分の身の危険をも省みず、多くの人が救出活動に参加したが、その積極性は、助ける人との心理的距離が大きく関わっていた。家族や親戚、近所の知人などの安否確認と救出は積極的に行ったが、それほど近い関係にない場合は、頼まれてはじめて行う場合が多かった。また、誰かがリーダーシップを発揮し、救出を呼びかけると参加することも多かった。過去の災害時と同様に阪神大震災の時も、一時的に「ユートピア的心理状況」(愛他的精神の著しい昂揚が顕著な状況)が被災地域に満ち溢れていたが、その現れ方は決して一様ではなく、地域により大きな違いがあったのである。
【警察の救出活動】
一方、被災地内の警察や消防による救出活動も直後から活発に行われた。現場警察官の直後の活躍ぶりは、兵庫県警察本部教養課が発行している広報誌、『旭彰』の2・3月合併号(1995年)に描かれているように、すばらしいものであった。 しかし、警察による救出能力が圧倒的に不足したときどうすればよいのか(地域の住民の協力をいかに得るか、どう組織化するか、救出用の資機材・重機等をいかに調達するかなど)、現場で対処するマニュアルはなかった。
警察官の数の不足は、家族や近所の人の協力を求めることによってかなり緩和された。多くの現場で近所の人や家族の協力を求め、人手不足をカバーできたからである。灘区の現場では、中年男性から「ここにも人が埋まっている」との要請を受けた警察官が「あなたが責任者で若い人といっしょに掘り起こして下さい」と協力を求め、2名の救出に成功している。
救出の優先順位の問題も難しい選択であった。ある現場では、子供が死亡していることは分かっているが「重い瓦礫の下から出して欲しい」と母親が懇願してきた。活動中の署員は、重機でなければ措置がとれないことや生存者を優先して、次の現場へ転進する必要