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方で、かなりの軍事力を残し、帝政ロシア以来の野望を捨てていないので、将来、軍事的脅威になり得ると言う人もいる。

中国の行方はアジアの将来にとって最大の疑問符である。

 

ここで紹介する記事を読む読者は、アメリカが将来どういう方向に向かうのかと言う明白な見通しに欠けていると思うかもしれない。しかし、それが、常にアメリカの実態なのである。

 

さて、ここでは、特に、明るい将来の希望を感じさせる2編の記事も紹介したい。

 

最初の記事は、「海軍軍人の鏡バーク提督とその死」(Death of a Sailor's Sailor)である。太平洋戦争の米国海軍の偉大な英雄アーレー・バーク提督は、海上自衛隊がその創設者と呼ぶ人であるが、1996年1月に亡くなった。その逝去を悼たみ、「ネイブル・インスティチュート・プロシーディングス」(Naval Institute Proceedings、1996年2月号)に掲載された記事である。

 

私とバーク提督との個人的な関係であるが、私は博士論文「海洋国日本戦後の海上戦力1945-1971」(The Postwar Sea Forces of Maritime Japan,1945-1971)を執筆した1970年から71年にかけて提督に対して広範な取材を行った。会見を申し込む私の最初の手紙に、予定した質問の数々を一覧表として添付したのであるが、驚くべきことは、まだ地位もない若僧であった私にすぐに返事を下さったばかりか、提督が全ての質問に正面から回答されたことである。それだけではない。提督は、私が怠慢からリストに漏らした、さらに重要な質問に対して、自ら筆をとって質問を設定し、自ら答えておられたのである。さらに、提督は、日本海軍と激しく戦った自分が、どういう風の吹き回しで、戦後に日本海軍の再建を支持する様になったと思うかねと、私に質問されたのである。

 

バーク提督は、後に私にこう語った。彼は、野村吉三郎提督に朝鮮戦争中に受けたところの親切と知識を通じ、日本への激しい憎悪の情を無くしたというのである。提督は、野村提督を通じて、また、その後の日本人との交際を通じて、多くの日本人が名誉を重んじる国民である事を悟ったと、私に説明した。

野村提督が亡くなった時、バーク提督は最良の友を失ったと感じたのであった。

 

バーク提督がその後、亡くなった時、彼の生前からの希望に従い、夫人は、制服姿で棺に横たわる提督の胸に、日本の昭和天皇から贈られた勲一等旭日章を飾った。それが、棺の中に入れられた唯一の勲章であった。アメリカ内外で贈られたその他の多くの勲章は棺の脇に陳列されたのである。

バーク提督は「ますます大国家に成長し変化するアメリカにおいては、海軍は力を実現する逞しい機関の一つとして存在し続けるべく努力しなければならない」と信じていた。

 

1951年に日本占領が終わり、アメリカ政府が日本もある種の海軍を持つべきであるとついに同意した時、バーク提督は小委員会をつくるべきであるとの意見を野村提督に述べ

 

 

 

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