分されなかったのである。薄弱な国家経済と社会的混乱、そして政治権力の闘争が続いたため、海軍拡張計画は頓挫したのである。実際、PLANの刷新はソビエト政府の援助によるところが大きく、PLAN拡張のモデルは潜水艦利用を重視するソビエト・モデルに基づいていたのである。
要するに、毛沢東の農村改革重視、強固な産業基盤の欠如、特に海運設備の欠如、海軍人材の不足、交換可能通貨の欠如により、中国は海軍近代化のための野心的な計画を実行することはできなかったのである。
しかし、国際的環境の変化、特に1969年3月のUssuri軍事衝突後の中ソ関係悪化、およびモスクワからの安全保障上の脅威により、中国は海軍戦力の近代化と向上を余儀なくされたのである。しかし、中国海軍の近代化は、1979年にトウ小平が政権の座について初めて本格化したのである。中国海軍は、トウの経済近代化と改革の中で、島嶼および内陸の沿岸開発防衛のために重要な存在となった。さらに、中国海軍の戦力近代化は、中国の漁業の成長に対応するためには不可欠であった。1985年以来、中国は西アフリカにまで漁船団を送りだしている。中国海軍増強のもう一つの理由は、近隣諸国の海軍近代化である。例えば、インドの海軍拡張予算は、1960年代の4%から、1970年代後半には45%にまで伸びた。したがって、中国の海軍エリート達はインドの海軍の戦力増強とインド洋での活動に対する懸念を強めたのである。さらに、自衛隊強化というよりタカ派の政策を採択した、1982年から1987年まで続いた中曽根政権下の日本の海軍力に対しても懸念を強めた。
1982年、肖勁光に代わり劉華清がPLANの司令官に任命されて以来、中国海軍は大幅な変革を遂げた。すなわち、林彪の人民戦争重視から積極的防衛重視に移行したのである。劉の指導下では、PLANの新戦略は積極的ブルーウォーター防衛戦略とも言うべきものであった。実際、PLANの採用した計画は次の3つの段階を経るものであった。第一に、中国海軍の役等を既存の役割から広大な沿岸線を外国の侵略から防衛する。第二に、沿岸地域の急速な経済発展を防護するためのブルーウォーター能力を完備した航空母艦を備え、海上貿易を監視し、漁業を防護し、南シナ海の海洋資源を利用する。最後に、最重要の役割であるシーレーン通信管理、そして中国を最終的に世界クラスの海洋パワーにする。(17)