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身と彼の南シナ海に対する認識によって形成されていたのである。このことは、毛沢東のアジアの戦略的関心、および彼の最大関心事であった「新しい」中国の建設、というより広い文脈において分析しなくてはならない。

 

最初の10年間(1949-1959年)の毛沢東指導体制の時期、毛沢東の最優先課題は、毛沢東自身のイデオロギーに基づいて古い封建的政治・経済秩序、制度、構造を完全に破壊することであった。したがって、毛沢東は南シナ海を対処すべき重要な地域とは見なさず、ベトナムのような係争相手に対して領土を主張する必要性を見いだすことくらいが関の山であった。

 

毛沢東が湖南省のような内陸の出身で、海の経験のほとんどない裕福な農家出身であるという事実が、彼の南シナ海に対する無関心な態度を作り上げたということもできる。実際、彼の「軍の同志」の多くは、中国の海軍力の増強、あるいは少なくとも中国海軍の近代化を図ることよりも、農民革命の促進に主要な関心のあった農家出身であった。毛自身に関して言えば、彼にとっては海という考え方は見知らぬものであったが、南シナ海の島々に中国国旗を掲げることなどは、到底考えもつかないことだったのである。

 

毛が低姿勢政策をとった理由として、人民解放陸海軍(以後PLANと記す。)が無視されていたことも挙げられる。毛沢東の優先課題は、ハードウエアよりもむしろ人民解放陸軍(以後PLAと記す。)のイデオロギーの発展を重視することであった。毛沢東にとっては、PLAの技術的側面よりも人間の方がより重要だったのである。したがって、PLAは毛沢東の軍事思想の中では最も優先順位の低いものであった。実際、毛沢東は自分と似ていないPLAの上層部の将軍達を徐々に排除していき、PLAの専門化を提唱したのである。毛のこうした無関心な態度と資金不足のために、PLANの武器は技術的・能力的には陳腐で弱いものであり、したがって主要な西欧の大国の挑戦に対抗することはできなかったのである。

 

次に、国外要因について見てみよう。1950年代および60年代に南シナ海が無視されていた理由は、第一に、毛沢東の関心が、むしろ同地域の共産革命政党を支持することによって毛沢東革命を推進することにあった、ということができる。たとえば、1959年から1965年まで、毛沢東の関心は北ベトナムとインドネシアの共産党(以後

 

 

 

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