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PKIと記す)を支持することによって北京-ハノイ-ジャカルタ軸を推進することにあった。インドネシア共産党のクーデタが1965年に失敗したことは、東南アジア本土とASEAN諸国で毛沢東を推進するという毛沢東の関心を示す結果となった。

 

第二の理由として、1950年代と1960年代の間、毛沢東の主要な関心が米国の対北東アジア・東南アジア封じ込め政策、および反毛政策に対抗して統一戦線を敷くことにあったことが挙げられる。この結果、対南シナ海闘争は無視されることとなったのである。いずれにしても、かりに毛沢東が中国海軍の近代化を切望していたとしても、圧倒的に強力な米国海軍に対して真っ向から挑むことはできなかったであろう。また、かりに毛沢東が中国海軍増強を望んでいたとしても、中央政府から遠く離れた南シナ海よりも、北東・東南アジアの沿岸防衛に注力するために中国海軍の北東・東南アジア艦隊の戦力の増強が最優先課題となっていたであろう。

 

1949年から1969年の毛沢東体制の時代、特に1955年に米国がベトナムに関与するようになってからは、中国は主に米国のインドネシアにおけるプレゼンスを弱体させることに注力していたのである。

 

1970年代の高まる懸念

 

国内的環境のみならず、国外の地域的・国際的環境も1960年代後半と1970年代初頭に変化した。その結果、中国の南シナ海に対する態度は変化することとなった。

 

a)国内要因

 

1976年9月に毛沢東が亡くなり、1971年にトウ小平が台頭してきた。これにより、中国の国内政治・経済のみならず、他国との国家関係にも大きな政策転換の時代が到来したのである。

 

最も顕著な変化は、中国の対外政策アウトプットとしての毛思想の終焉であった。トウ小平は徹底的なプラグマティストであったため、彼の態度は彼の有名な文句で要約できる。すなわち、「中国猫はネズミを捕ることができる。その猫が「赤」か

 

 

 

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