っていたソ連の崩壊によりその夢は達成されないままであったことである。
33.さて、ゴルシコフの線に沿って進められているように思われる中国海軍の現在の思考に戻ろう。1980年代の後半以来、海軍の計画立案者は中国の防衛範囲の拡大とその保護に努めている。1988年に新しく海軍司令員(総司令官)の座についた張連忠は、そのような展開を可能とする三つのシステム-洋上補給艦、遠距離通信システム、衛星航法システム-の開発を祝った。それらは明らかに長距離作戦を継続させる上での前提条件である。彼は続けた。「外側の範囲は、第一列島線に至る海域を含むと考えられる。この海域を防御するのは、通常型及び原子力潜水艦(その一部は対艦ミサイルを装備したもの)、中距離航空機、ならびに水上艦である。潜水艦は敵の海上交通路への機雷敷設を含む縦深的な防衛を確保するといったダイナミックな任務を遂行する。真ん中の防御範囲は沿岸から150マイルの海域で、ほとんどの場合、第一列島線には至らない。この海域では対艦航空機、駆逐艦、護衛艦が主な任務を遂行する。内側の防御範囲は沿岸から60マイルの海域で、海軍航空主力、高速攻撃艇、陸上設置型の対艦ミサイル砲台の作戦海域となるであろう。」
34.中国海軍の新しい戦略採択の大部分は、恐らく劉華清海軍大将(中国軍の呼び方では上将)に負うところが大きい。トウ小平に長年目をかけてもらっていた生え抜きの海軍士官出身の彼は、海上勤務、幕僚、政治的任務を経て、1982年から1988年まで海軍司令員を勤めた。次の年、彼は党中央軍事委員会(CMC)に登用され、1992年には中国共産党中央政治局の常務委員に任命された。この組織の中では唯一の軍の代表である彼は、現在の中国では上位7名のうちの一人である(その他の常務委員は江沢民、李鵬、番石、朱鎔基ら)。劉華清はいくつかのサークルからゴルシコフと比較されている。事実、彼は若い頃レニングラードのヴォロシーロフ海軍アカデミーで学んだときからゴルシコフの考え方を評価し始めた。その頃、出世前のゴルシコフは、彼の教官の一人であったといわれる。劉華清の今日の立場を然らしめたのは、彼の職歴を通して関わってきた強力な技術的経験である。一例として、1967年に科学、技術部門の副局長に任命された時は、そこで原子力潜水艦のプログラムと深い関わりを持つことができた。1995年5月、ロシアのグラチョフ国防相が中国を訪問した際に、彼は中央軍事委員会の議長で、「軍事技術問題担当者」と紹介された。劉は長年、中国海軍の発展の陰にあって推進力であり、将来に向けての技術的所要を評価する上で明らかにふさわしい人物であった。そこで劉が海軍の将来の設計者であると仮定して、その任務の各種要素を検討して見よう。
35.主な目標の一つは、海軍の研究開発、調達、建設複合体を一掃、合理化し、調整することであろう。武器システムを国産するにも、外国から調達するにも、現在のシステムは恐らく混乱している。原子力潜水艦プログラムは、技術と政治的イデオロギーが衝突した滑稽な一例であった。設計段階の時点は文化大革命の最盛期であったが、紅衛兵は主任設計官Huang Xuhuaを逮捕し、裁判にかけた。劉華清が政治局を説得し、「このプロジェクトは国家安全保障に不可欠なものである」という指令を出させて、やっと彼は釈放され、仕事が軌道に戻った。外国からの調達に関しても、個々の船体に組