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鉄甲艦の経遠・来遠、巡洋艦の済遠と魚雷艇5隻がドイツ製、鉄甲艦の致遠・靖遠、巡洋艦の超勇・揚威、練習巡洋艦の俊捷と440トンの砲艦6隻、魚雷艇1隻がイギリス製であった。

 

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このように中国が、海軍力の増強を輸入に頼っていたため、国内の施設や技術が育たず、日清戦争に敗れると再びイギリスやドイツから購入し、5年後の1899年には巡洋艦海天型2隻をイギリスから、巡洋艦海容型をドイツから、そして駆逐艦2隻、魚雷艇6隻をイギリスとドイツから輸入した。

しかし、日本がロシアを破り日本の工業化も進むと、中国内に親日的な傾向も生まれ、留学生の派遣や艦艇の建造が依頼され、1909年には780トンの砲艦永豊(三菱)・永翔(川崎)が、1907年には南洋大臣から河川用砲艦4隻、1908年には湖広総督から砲艦6隻、水雷艇4隻が川崎造船所に発注されるに至った。そして1909年には、北洋と南洋両艦隊を整理統合して、巡洋艦隊と長江艦隊を編成し1910年12月には、これら艦隊を統一指揮する司令部を上海に新設した。また、1909年には「海軍増強7年計画(1909年-16年)」を作成し、戦艦8隻、巡洋艦20隻の建造や、海軍工廠、軍港の整備、各種学校などの設立を計画したが、さらに1913年4月には、日本の88艦隊に対抗し2万3000トンの巡洋戦艦30隻、3500トンの軽巡洋艦12隻、駆逐艦100隻、潜水艦20隻(合計102万トン)を建造する「民国10年の理想拡張案」を立案した(3)。しかし、これら計画は1911年に勃発した辛亥革命により何一つ実現されなかった。なお、辛亥革命が勃発した当時の海軍兵力は、巡洋艦隊が巡洋艦海圻以下15隻(1万8000トン)、長江艦隊が巡洋艦南探以下17隻(1万4000トン)で、日本製の江クラス砲艦4隻、楚クラス砲艦6隻が新造で、これが艦隊の主力であった。

辛亥革命が勃発すると、清朝政府は北洋大臣袁世凱に命じて鎮圧軍を派遣し、海軍は山東沖で演習中の巡洋艦2隻と砲艦を漢口に派遣し、漠口には巡洋艦隊の巡洋艦3隻と魚雷艇5隻、長江艦隊の砲艦5隻、南京水域には長江艦隊の13隻、上海水域には9隻が配備された。しかし、これら艦艇は11月初旬から中旬にかけて、全てが寝返ってしまった。最初は上海にあった艦艇が寝返り、次いで南京の艦艇が、そして下流を塞が

 

 

 

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