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れた武漢水域の艦艇が最後に革命側に付いた。しかし、その後に北洋軍閥の袁世凱が政権を握ると、これら艦艇は袁世凱側に走り、従来の巡洋艦隊、長江艦隊は第1艦隊、第2艦隊に改編され、統一海軍の時代は長くは続かなかった。すなわち、これら艦艇が袁世凱の皇帝即位に反対して再び離反し、巡洋艦海圻など数隻が護法艦隊を編成したのであった。これら艦艇は袁の帝政撤回により再び復帰したが、さらに袁世凱の死後、北京政府が独裁体勢を強化すると再び分裂し、北京政権と広州政権下に別れた。その後、北京の海軍総長の程壁光が広東出身であったため、孫文が広東に政権を樹立すると、程壁光は上海の第1艦隊を率いて孫文の下に馳せ参じた。しかし、北洋艦隊の中には北方出身者もかなり多く、北京の政権が呉佩孚に変わると、巡洋艦海圻以下6隻が再び広東を脱出し、青島に至って渤海艦隊を編成した。

一方、広州に残った残留艦隊は粤艦隊と呼称され、新設の広東海防司令部に所属したが、その後、北洋軍閥の安直戦争、第1次・第2次奉直戦争を経て、主力艦の海圻・海探・肇和は広東軍閥に走り、ここに北洋艦隊は消滅し、黒竜江の警備に派遣されていた江防艦隊は満州国が建国されると、満州海軍に組み入れられてしまった。その後、蒋介石の勢力の増強にともない、これら艦艇は徐々に蒋介石のもとに集まり、1928年には国民革命軍第1・第2艦隊と練習艦隊が編成され、ここに初めて統一された中国海軍が誕生した。まことに『三国史』を思わせる目まぐるしい動きであった。しかし、この間に多くの戦いがあったが、その戦いは距離を置いて対峙し、小競り合いを繰り返しつつ、賄賂や利益供与による寝返りで勝敗がつく、前近代的ないわゆる中国的な戦いであったため、海戦らしい海戦は一つもなく、この10年に及ぶ内乱中に沈没した艦艇は1隻もなかった。なお、この間に巡洋艦寧海が播磨造船所で、同型艦の平海が上海の江南造船所(武器などの艤装は播磨造船所-相生)で建造された。

 

3日中戦争と中国(国府)海軍

満州事変2年後の1934年に、中国海軍は対日戦争に備え、次に示す作戦要領・整備兵力量などに関する「民国25年改定海軍作戦計画草案(4)」を決定した。

1日本一国を目標とする。日本海軍が中国海に侵入した時には、防御的攻勢作戦をもってこれを撃破し、中国近海の制海権を確保する。

2今後10年間に中国沿岸、江上にある日本の艦艇および来援する艦艇を一挙に殱滅し得る海軍力を整備する、太平洋海戦未決の期間中〔著者注:日米戦争開始前〕は中

 

 

 

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