なく、さらに中国独特の腐敗した体質から、随所でピンハネと手抜きが行われ、購入後に船底が腐食し数年にして廃艦されたものもあったという。そのうえ、これら海軍は私兵的なもので、統一的な指揮系統はなく、各艦隊は各地の総督に隷属し、制服、訓練方式、給与なども艦隊によって異なり、清国海軍という名称で呼ぶに値するものではなかった。
その現れが1884年の清仏戦争で、フランス艦隊の矢面に立った福建水師は、最大の艦隊を保有する北洋水師に支援を求めたが、李鴻章は北方水師を出動させず、福建水師を見殺しにした。この反省から海防議論が再び高まった。しかし、不思議なことは日清両国の緊張が高まっていた1888年から1894年の6年間に、清国海軍が1隻の軍艦も増加させなかったことある。この理由について、西太后が自らの享楽のために、海軍予算(当時は土木建築費も海軍予算に含まれていた)を北京郊外の庭園の改修に流用したため、ということが定説となっている。しかし、深堀道義氏は西太后は大の外国人嫌いで、夷を制するために海軍を拡張すべきことは充分に理解していた。しかし、当時の北洋水師は、漢人である李鴻章の私的軍隊と考えらており、西太后が北洋水師の勢力が強化されることを好まず、また李鴻章もこれ以上増強することは、満州出身の西太后の猜疑を受け地位を失うと考え、清朝に忠節を尽くすために艦隊の増強を差し控え、造園に励んだとしている。
しかし、これにもかかわらず、中国海軍は日清戦争開戦時には、日本の軍艦22隻、水雷艇24隻、総トン数5.9万トンに対して、30.5センチ連装砲2基4門を装備した7335トンの東洋一の鉄鋼艦定遠・鎮遠を保有し、南洋水師・福建水師・広東水師を加えれば、海軍総兵力は軍艦82隻、水雷艇25隻、総トン数8万5000トンを保有していた。しかし、実際に戦争に参加したのは、丁汝昌の率いる軍艦22隻、水雷艇12隻からなる北洋水節と、たまたま北洋水師の創立記念行事に参加し、南洋水師が経費不足から給料などを支払わなかったため、北洋水師に寄食していた砲艦広甲・広乙・広丙だけで、その他の水師は、対外戦争よりも軍閥としての兵力維持を重視し、対仏戦争と同様に戦うことはなかった。
2軍閥混戦時代の海軍
1862年から1911年の間に、次に示す艦艇を建造あるいは輸入したが、中国が国産よりは輸入に頼っていたため、国産艦は練習艦の康済・威遠だけで、主力艦の定遠・鎮遠、