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行為の規定について言及しながら、中華人民共和国に調査を依頼した。

 

1995年10月24日IMBとキプロス当局はホンジュラスの船荷登録によりホンジュラスにはアーティックシー号の言う名の船舶は登録されていないことを確認した。

 

IMBの調査官は中国当局に、反論し難い証拠品であるインド人バイヤーによる権利証書の載っている書類を提出した。またIMBの調査によって、アーティック シー号の書類にあるホンジュラス登録番号が船荷盗難に関わった前の船に関連している事も確認された。

 

1995年12月に中国国民安全局(PSB)はアーティック シー号と呼ばれている船が実はアナ シエラ号であると正式に発表した。しかし、PSBはまだ調査中であると言う理由で船舶を船主に引き渡す事を拒み、また、調査がどういう物であるかを公表する事もなかった。 海賊である乗組員は一人として正式にインタヴューを頼まれなかった。事実、中国の当局はこの問題について何もしなかったと思われる。

 

1996年2月船主は諸費用の4百ドルをPSBに支払う事を条件に船を引き取りに来るよういわれた。この条件があまりにひどいので、どの法執行機関もこの件を告訴しなかった。

 

1996年7月14人の海賊は船を下ろされ、北海にあるPSBの宿泊施設に入れられた。1996年末には10人の海賊が本国に送還された。

 

アナ シエラ号が北海に着いてから、乗船していた海賊である乗組員は全く手入れをしなかったので船も高価な船荷も徐々にだめになっていった。その船は1996年から、ずっと人が乗っていなかった。1997年1月にPSBはエンジン室と船倉の一部に海水が浸水しているのに気がついた。必死にこの状態を救おうとしてPSBは船荷を下ろし始めた。インド人の船荷の持ち主が荷揚げに気付いて北海に代理人を送った。しかし、PSBは理由の説明もせずに彼らが船や船荷に近づく事を拒んだ。6千トンからの貨物が荷揚げされ、北海から30km程にあるホープー(合浦)群にある倉庫に運ばれた。

 

1997年1月31日までに船倉内にはもっと多量の海水が入り込み、右舷に10度傾いた。港当局は船舶が停泊し続けるのを拒んで、近くの海辺まで引いて行った。それは今でもやわらかい砂浜に乗り上げたままである。

 

1997年2月残りの4人の海賊が家に帰された。船舶乗っ取りのような重犯罪を犯した14人が、尋問も受けずに簡単に家へ帰されたと言うのは信じがたい。PSBはこの14人は中国で犯罪を犯したわけではないので自分達の裁判権外の事件であると主張した事がわかっている。

 

 

 

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