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荷されたがタイの貨物であると言う船荷証書があった。船荷の砂糖は、海賊による犯行以前の1995年9月の初めに何者かによって不法に北海の商人に売り飛ばされていたことが判明した。

 

その間、中国前線防衛当局(Chinese Frontier Defense Authority, Banfong)が船舶を留保していた。武装した2人の監視が乗船していた。船舶に関する書類と共に「乗組員」のパスポートも没収された。14人の「乗組員」のうち、12人がインドネシアのパスポート、2人がマレーシアのパスポートを持っていた。これらのパスポートは14人の「乗組員」が1995年8月7日にシンガポールからタイ エアーウエーズでバンコック空港に着いてタイに入国したことを示していた。パスポートにはタイ国からの出国印は押されていなかった。

 

アーティック シー号の船長は自分をベカス船長と呼んでいる人物であった。彼は13人の乗組員と自分がバンコックでポラリスと言う名の船に加わって、マニラまで航行したと述べた。彼らはマニラの投錨地で乗組員のいないアーティック シー号に乗り換えさせられ、その後1995年9月16日にマニラを出て北海には1995年9月20日に着いた。その地域の海図を調べて見るとアーティック シー号は4日ではこの航行が出来ない事が証明された。すると、ベカスはハイナン海峡を通って北海に行ったと主張した。これら3海峡は中国の軍隊によって支配され、特別許可なしにはどんな船舶の通過も無理であることから、この申し立ては不可能である。同じように、アナ シエラ号の最後の位置が1995年9月15日朝にはヴェトナム沖であり、乗組員はそこで漂流させられた事が知られていた。この位置とマニラの距離は800海里以上ある。マニラまでの海路を完走するには33ノットのスピードが必要であったが、アナ シエラ号のスピードはたった11ノットであった。というわけで、ベカスが主張する様にこの船が1日で航行出来る距離ではないのだ。おまけに、バンコック港と照合してみても、ポラリスと呼ばれる船の記録はなかった。マニラ港当局でも1995年9月にポラリス号とかアーティック シー号と言う名の船舶の連絡は入っていない事が確認された。

 

キプロス当局による調査では14人の男が1995年8月7日にバンコックに入国し、アナ シエラ号の出発までの5週間そこに待機していたことがわかった。それから9月13日に乗組員の一団に加わわったのだ。ある時点でその一団の何人かが14人を船まで連れて来たモーターボートで上陸した。これらの海賊は船の現金と乗組員の所有物を盗み取って行った。1995年9月15日に乗組員を船外に投げ込んでからアナ シエラ号は北海に向けて航海したのであった。アナ シエラ号が最後にいたと見られる位置と北海の距離は9百マイルである。だから、ヴェトナム沖で乗組員を船外に投げて落としてから、直接に北海へ向かったとしか思えない。

 

キプロス当局は北京に向けてすぐに商用貨物部門の上級係官を派遣した。彼らは外交ルートを通して、1958年に採択された国際海洋法と1982年に採択された国連海洋法における海賊

 

 

 

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